明治の憲法草稿と小田為綱(岩手県久慈市)
5月3日は憲法記念日。でも、憲法について考えるより祝日、連休、家にいようか出かけようかのありさまだ。せめて憲法周辺の歴史を見てみよう。
現在の日本国憲法の前に明治憲法があった。その「大日本帝国憲法」の内容、国民は発布の日まで知らされなかった。しかし欽定憲法制定なるや東京はお祭り騒ぎ。それを見たドイツ人医師ベルツ――東京医学校(東大医学部)に招かれ退職後、宮内省御用掛――は日記に
「至るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、滑稽なことには誰も憲法の内容をご存じない」(『近代日本史の基礎知識』有斐閣ブックス)。
新聞も、
[祝典準備に忙しい東京] 来る十一日は祝意を表せんとて、全府市の準備中なるが、府下各町より繰り出す花車、踊り屋台など・・・・・・当日は宮城二重橋内に挽きるるも差し支えなき由なれば各町々の意気込みも沸き立つばかりなり(明治22.2.7・時事)。
明治憲法が制定される以前、盛り上がりをみせていた民権運動の国会期成同盟が憲法見込案を持参することを決議、民間在野で憲法案・私擬憲法が作成された。
その数40~50という。後の発見も含まれ、その一つが人権保護規定で知られる千葉卓三郎(宮城県)起草「五日市憲法草案」であり、小田為綱によるとされる「憲法草稿評林」である。
「憲法草稿評林」は小田為綱文書の中から発見され1880明治13年ころ作成されたといい、「国民投票による皇帝のリコールをも主張」という案で、政府内外からだされた憲法私案のなかでも独特で衝撃的である。
小田為綱(おだ ためつな):1839天保10~1901明治34年。
岩手県九戸郡宇部村(久慈市宇部町)出身の学者・教育者・政治家。昌平黌に学んだ後、盛岡藩の藩校である作人館の教授・寮長となり、原敬らを指導する。
明治維新後、北奥羽開拓の構想を建白するが顧みられなかった。 西南戦争に呼応して、東北地方での士族挙兵「真田太古事件」に参画するが未然に検挙され、他の参加者らとともに禁固刑に処せられた。1898明治31年に衆議院議員に当選(フリー百科事典『ウィキペデア(wikipedia』)。62歳病没。
1989平成1年5月、『評林』が出てきた岩手県久慈市を訪れた。為綱の生家はすでになかったが、市立中央公民館の前庭に為綱の顕彰碑が建立されていた。1982昭和57年に地元顕彰会の手で建てられたとのことだった。為綱は没後八十余年にして郷土の誇る偉人として認められたのだった。(岩垂弘・ジャーナリスト http://www.econfn.com/iwadare/page230.html)
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