「山形・福島・栃木 道路写生帖」(高橋由一画)
東京上野・東京芸術大学美術館<近代洋画の開拓者・高橋由一展>に行った。
高橋由一(1828文政11~1894明治27)描く、重要文化財「鮭」は39.0×46.6cmと実際の鮭より大きく、素人眼にも立派ですばらしいと思った。が、絵より制作年代の1877明治10年の方が気になった。
明治10年=西南戦争である。その同じ年の作品「墨田堤の雪」「愛宕山より品川沖を望む」などの風景画をみていて、鹿児島で西郷隆盛が明治政府軍と戦っていようとも、多くの人にとっては「昨日に続く今日の暮らし」が当たり前を感じた。
更に興味を抱いたのが、表題の「山形・福島・栃木 道路写生帳」と「三島県令道路改修記念画帳」である。これら土木工事の記録画、米沢市と福島市の境「栗子山隧道図西洞門」は代表的なものである。
土木県令三島通庸の道路工事強制ついては農民の怒り、暴動、逮捕のイメージが強く、記念画帳があるなど思いもしなかった。なにしろ、三島は「火付け強盗と、自由党とは、頭を擡げさせ申さず」と豪語した人物。反対する者を抜刀した警官が弾圧、逮捕している。
三島は福島県令に着任すると県吏を腹心で固め、山形県、新潟県の二方から若松にたっし、さらに栃木県に延びるいわゆる三方道路建設を決した。
それは、東北日本の日本海岸を東京に結ぶ道路網の建設は経済的にも軍事的にも重大な意味をもつものであった(『近代日本史の基礎知識』有斐閣ブックス)。しかし、農民の負担はあまりに重く若松裁判所へ訴え出たが受理されなかった。逮捕された自由党・河野広中らは宮城監獄に、明治憲法発布の大赦の日まで幽囚される。
描く、「宮城県庁門前図」には見覚えがある。明治のモダンな洋画家のイメージだが、数多い作品をみると肖像画、風景画、静物画など作品は様々な分野にわたっている。また、人物・肖像も庶民から元老院の依頼で描いたという明治天皇、日本武尊まで実に幅広い。
広い間口に感心する一方で、拡がりすぎではと思わないでもなかった。しかし、NHK解説委員室ブログ――視点・論点「高橋由一の画業と事業」を読み納得した。下記はその一節。
高橋由一の生涯は、洋画の普及というただ一つの目標のために費やされたといってよいでしょう。いまだ美術という概念が成熟していない時代、由一は美術を何よりも「実用」に供するものとして重視したのです。世の中に役に立つかどうかという基準が由一にはことのほか重大な意味をもっていました。洋画は、事物を記録に残すという点でもっとも優れた存在であり、人々の役に立ち、ひいては国の役に立つことにつながる。それが由一の考えていた洋画であり美術であったということができます。
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