上野・東京図書館/樋口一葉、大橋図書館/大橋佐平
1880明治12年、東海散士柴四朗28歳は岩崎弥太郎の従兄・豊川良平の仲介で三菱からアメリカ留学の資金を得、サンフランシスコに向かった。はじめに商法学校に通い、翌年ケンブリッジに移ってハーバード大学に入学した。
ハーバード大学図書館は蔵書が多く充実してい、恵まれない学生にとって貴重な知識習得の場である。四朗はハーバードで政治経済を学んだが、翌年フィラデルフィアに移りペンシルバニア大学で学位をとって帰国。
四朗は図書館のありがたみを忘れることなく会津若松図書館創立の際、蔵書のほとんどを寄贈、それは現在も閲覧できる。
さて当時の日本の図書館事情はいかに。
1875明治8年、東京書籍館が開館されたが、西南戦争による経費節減でいったん廃止、のち文部省に移管され1880明治13年、東京図書館となる。四朗がアメリカでハーバード大学図書館に通っていた年だ。それから10年後、樋口一葉(0872明治5~1896明治29)は上野の東京図書館に通い詰めていた。
一葉の図書館通いがはじまるのは、明治24年6月からだが、自分の仕事部屋ももたず、蔵書も満足ではない一葉にとって、そこは、唯一開かれた近代の知の盛り場といってもよい (中略) 一葉が図書館でのびのびと振る舞ったことは日記などから十分推察される。
時間があれば、上野の東京図書館へ・・・・・・小説の種さがしもさることながら、一人で読み書きに没頭する時間と場所が切実に必要とされたのだろう(『樋口一葉をよむ』関礼子・岩波ブックレット)。
東京図書館は1897明治30年に帝国図書館となる。この数年後、私立図書館が開設される。
明治期最大の出版社「博文館」創立者・大橋佐平(新潟県長岡1835天保6~1901明治34)は、かねて民間の図書館開設に熱意があった。
片腕の坪谷善四郎と息子新太郎は佐平没後、1902明治35年に大橋図書館を開設させた。
いらい、大橋図書館は芥川龍之介・菊池寛・埴谷雄高ら独学する若者たちの強力な味方となった(『民間学事典・事項編』三省堂)。
会津若松図書館創設の際は、東大総長・山川健次郎(旧会津藩士、兄・山川浩、妹・捨松)の紹介で帝国図書館、そして大橋図書館を視察・研修している。
ちなみに、柴兄弟は太一郎、四朗、五郎ばかりが知られるが、三男・柴五三郎は志を遂げられず、結果的に家族を守り支える事になった。彼の覚え書き「辰のまぼろし」原本が会津若松図書館に保存され、蛤門の変、戊辰戦争など当事者の見聞を今に伝える。
あまり達筆ではない五三郎の手跡をみていると親しみがわき、幕末明治がそう遠くない。図書館にはこうしたナマ原稿はもちろん新旧の書籍がたくさん。どこの図書館にもある本の山、いわば宝の山だ。大事にしたい。
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