明治の志士・日露戦争の軍事探偵、横川省三(岩手県)
『明治の墓標』に「横川省三と川原操子」が内田康哉公使のもとで蒙古の動静を探りに現地に赴いたとあり、勇気ある女性に驚いた。彼女に興味をもったがいつかにして、今回は明治期事件の渦中にいた人物、横川省三(1865慶応4~1904明治37)をみる。動向を知ると、どこかで名を見ていそうだが知らなかった。好材料、人物に出会うも関心がなければ素通りしてしまう。
さて東日本大震災から1年半を過ぎたが、岩手県盛岡市の状況はいかがだろう。
1923大正12年『最新案内モリオカ』(新東北社)の名所旧跡の項にある
――― ○平民宰相の墓(大慈寺) ○横川省三の碑(岩手公園武徳殿前) ○小岩井農場その他。
各所とも無事でありますように願っている。
次は「横川省三碑」除幕式のようす。
―――同氏の墓は旧桜山に在るが、この春武徳殿柔道師範・奥田松五郎氏等が主唱してこの碑を立つるに至った。碑の高さ丈余、さきに原(敬)首相の墓参りのため、内田外相、水野練太郎氏等が来盛した際、外相は自分が支那大使奉職時代の友人として横川氏と親交の深かった関係から旧桜山の墓所に詣で、茫々たる往事を追想して一掬の涙なきあたはずだったといふ、除幕式は去る五月挙行された。
ちなみに横川省三・銅像は盛岡市高松池畔・神庭山に建てられ、除幕式には娘の横川律子氏も出席(東京朝日新聞1931昭和6.4.21)。
省三は盛岡藩士・三田村勝衛の三男、又の名を山田勇次、横川家の養子となる。若い日は郷里の求我社・付設の行餘学会で欧米の憲法などを学び議論。数年間、山岸校(のち三山校)を振り出しに何校か助教として教壇にたつ。
やがて中央を目指して東京へ出、築地・有一館で自由党の星亨らの講義を受け、また自由党、板垣退助や愛国公党の人々と交わり国事に奔走。加波山事件に関わる。
加波山事件とは、福島・栃木の自由党員が三島通庸や政府高官の暗殺を計画するが発覚し茨城県加波山で蜂起する。が、鎮圧され横川は有一館に逃げ込むが掴まり禁固6ヶ月となる(『怪傑伝』伊藤仁太郎 1935)。
出所した省三は東京朝日新聞に入社。日清戦争がおきると従軍記者となり威海衛攻撃に際しては軍艦吉野に便乗、高千穂にも乗り黄海海戦記事を書いた。小笠原長生『日露戦争軍事断片』にはこの時の省三の様子が目に見えるように描かれている。
次に省三は郡司成忠大尉(幸田露伴の兄)が千島探検をすると、同行して千島まで赴いて越年、千島探検記「短艇遠征記」を連載した。
ついで省三はアメリカ、ハワイにも行き内田康哉公使と共に北京に至る。まさに日露の風雲急、戦争目前に軍事探偵となる。
四川に赴くと風俗民情を観察、つぎ蒙古を縦断、東清鉄道ハルピン駅でロシア人に捕まる。20日あまりで釈放されたが帰国することなく偵察をし報告し続けた。
1904明治37年4月8日、省三は同志と東蒙古より敵の後方ハルピン付近に現れる。
ロシア軍の輸送を断つため鉄橋爆破を企てるが敵の巡邏隊に発見され獄に入れられ、4月21日クロポトキンの命により銃殺ときまり従容として死についた(『和賀郡史』岩手県教育会和賀郡部会1919)。
近代デジタルライブラリーに横川省三関係のものが18ほどあるが、その殆どが修身、美談ものである。これだけ東奔西走し、戦前は有名だったらしいのにあまり知られていないのはこの辺にあるのだろうか。
2012.6.23 毎日新聞・夕刊
開業から30周年を迎えた新幹線。JR盛岡駅で手を振る駅長さん二人の写真が目をひいた。1人はJR盛岡の駅長、もう1人は被災地出身の女性。震災から1年以上すぎてやっと全線が復旧したのだ。
「30年の節目は震災からの復興元年。希望や元気を運び続けてほしい」、佐藤駅長の願いはみんなの願い。
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