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2012年7月22日 (日)

明治の少警視そして青森県知事・佐和正(仙台)

 先だって有楽町で映画「白磁の人」の人を見た後、「ドローイング&小品展」安原有香さんら11人展にいった。若い世代の前衛的と愛らしさが交じる感性に刺激をうけて画廊「羅針盤」を出、角を曲がったら警察博物館が目に入った。隣の映画館でたまに映画を見たが、博物館は気づかなかった。明治期警察の展示があるかもと入ってみた。
 
 明治のはじめ、警察は今と違って軍事的色彩が強かった。しかし社会変化により新しい制度を作ることになり、1874明治7年、内務省は東京警視庁を設置した。庁舎は鍛冶橋門内・元津山藩邸におき初代の長は川路利良で薩摩出身(1834天保7~1879明治12年)。

 この年は西郷隆盛ら征韓論分裂による政治情勢もあり警察は首都不安の取締りにあたる。やがて佐賀の乱がおき各地で反乱が続きついに1877明治10年西南戦争が勃発した。
 ちなみに川路は西郷に可愛がられ、このとき動向が注目されたが、陸軍少将兼大警視・川路は東京の警察官を中核に、徴募巡査など計9500名で別動第3旅団を編成、参戦した。この新政府軍に戊辰戦争で敗れた元藩士が加わり「戊辰の仇」と西郷軍に斬りかかった。
 展示品に警視隊が使用したスナイドル銃や錦絵があり、砲声が止むまで8ヶ月もかかった戦闘を垣間見せる。

 さて西南以後、武力での反抗が力尽き言論活動が活発になると、自由民権運動が盛んになり取締る側も制度を整える必要があった。川路は警察権の確立につとめ、警察制度を整えるのに尽くした。
 1879明治12年、川路は再び欧米各国の警察制度視察にでかけるも病を得て帰国した。随行の佐和正が視察の紀行『航西日乗』をまとめた。この『航西日乗』3巻は近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ で見られる。

 警察博物館展示: 佐和正少警視肖像、自筆経歴書、フランス語メモ、オーストリア・ウイーンの新聞(1880.3.14)イラスト日本の警察高官は佐和正のもよう。おそらく川路の帰国後、佐和が一行を率いたのだろう。次は佐和の経歴書から
 錦鶏間伺候・従三位勲三等・東京府平民・旧仙台藩・1844弘化元年正月生・1870明治3年6月より8年3月弾正史生・12等出仕、以下略。

 展示の『警視庁百年の歩み』(昭和49)を参考に詳しく見ようとしたが市販されてない。後日、東京都庁・情報ルームへ見に行き、今さら警視庁は東京の警察機関を実感。

 佐和正を検索してみると「伊達安芸家臣の血判状」と『警察手眼』があった。
 血判状は仙台藩伊達家の一門、伊達安芸宗重が伊達式部宗倫と境地争いをしたとき、家臣もまた主人安芸と運命を共にすべく神明に氏神に誓った血判状。佐和正・伊達邦宗旧蔵。

 「警察主眼」1876明治9年(校閲佐和正)55頁、金10銭。
 警察官の心得、身分等級から探索の仕方が書いてある。目をひいたのが

―――官員ハ元来公衆ノ膏血ヲ以テ買ハレタル物品ノ如シ。故ニ其値ニ適当ス功用ヲ為サズンバアル可カラズ。若シ此功用ナキ者ハ其買主ナル公衆ニ疎マレヌ・・・・・・

 この文言通りに実行されたかは知らないし、自由民権運動と司法、警察を並べると新聞紙条例とか讒謗律といった取締りが浮かんでくるが、この精神は今も必要かと。

 さて、ヨーロッパから帰った佐和は1885明治18年、伊藤博文(長州)特派全権大使の清国差遣に随行。翌年、内務権書記官に任ぜられ、1888明治21年12月、青森県知事に任命される。

 『地方長官人物評』1892明治25(大岡力著)
―――仙台藩の微臣にして後藤正左衛門と称す。維新の初め英学を修めるも身を商事にたてんとするもならず、官途につく。しかし自身の罪ではないのに犯罪の嫌疑をうけ獄に投じられる。
  警視庁に入り川路に可愛がられるが、三島通庸(薩摩)が総監となるや疎まれ、前内務大臣・品川弥二郎(長州)により内務省に転身。

 青森県知事になった佐和は、前知事・鍋島幹の政策を排斥し大同派(1892年の自由党)の歓心を買おうと、同党の方針を政策としたが、かえって軽んずる所となれり――略――今後の方針上、大いに猛省する所なくして可ならんか。

 なかなか手厳しいが、人物評にはこれも仙台藩士の子で実業家の東京府知事・富田鉄之助以下多数あり、全部をよめば著者・大岡力の傾向がわかり事実に近い事を描いているのが、捻っているのか分かるかも。これも近代デジタルライブラリーで読めるので興味のある方はどうぞ。

 佐和正の青森県知事を知って、あることに気づいた。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』の柴太一郎青森県下北郡長であったとき佐和が県知事として赴任してきたのだ。
 役職の年代が重なる時期があり、どちらも内務省に属していた。知事と郡長、会議で会うこともあっただろう。そう考えると、思いがけない所で、太一郎の上司にであった思いだ。
 佐和は『航西日乗』のほかに何か書き残したものはないのだろうか。

 明治維新後、武士は藩からの援助を得られなくなり、自分で自分を養っていくしかならなくなった。帰農する者、商業につく者さまざまだが、官途につけば敵であった薩長土肥の下で働かなければならない。しかし後世が思うより上司がかつての敵側の人間でも、時代が変転、感情的にならず割り切って仕事したかもしれない。佐和の経歴をみてそう感じた。
 それに江戸の教養、能力は無駄にはならず仕事はできたから、頭、長になれずともけっこう出世していったように見える。

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