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2012年8月 2日 (木)

修養団・蓮沼門三(福島県)

 2012ロンドンオリンピックで水泳の北島選手が3度目の金を手中にできなかった。ピンポンおばさんとしては卓球を応援している。メダルに一喜一憂の国内の一方で猛暑にめげず「原発反対」デモが行われている。脱原発に賛同しつつニュースに接している。
 原発事故が再び起こらないとは信じ難いし、今なら不自由を強いられても耐えられと思う。また世界では戦争が終わってない。こんな不安感がみなぎる社会だと「確たるもの」が現れると、すがりたくなりそう。今も昔も、若者は自由でいるより一見分かりやすい教義や趣旨の塊に飛び込みがちのよう。
 明治に創立の修養団も多いときは団員が620万もいたという。しかし、国家主義に傾き1945昭和の敗戦をさかいに活動は目立たなくなった。終戦記念日8月15日が近いのに、このような戦前をあげてどうなのか迷うが記した。

 修養団:
 1906(明治39)年に、蓮沼門三が中心となって創設した修養教科団体。はじめは<人格の修養、心霊の向上>をめざす学生の精神運動だったが、名士に接近し、第一次世界大戦のころから、集団キャンプ生活などで青年の<感激>に訴える新型の教化団体として頭角をあらわした。平沼騏一郎の団体就任以後、国家主義的傾向を強めた。
 「献身報国」や戦争協力(皇民道場、伊勢神都道場の建設など)の道をとり、内務・文部両省の外郭団体として海軍工廠、鉄道省、工場、鉱山などに支部がのび勤労奉仕などを行い国民精神総動員の軸となった。敗戦後は追放をまぬがれ1951昭和26年ころから再び工場などに進出、機関誌『向上』がある。

 (財)修養団創設者の蓮沼門三(1882明治15~1980昭和55)
以下は『修養団三十年史』(1936昭和11年)から創設者・主幹、蓮沼門三伝。

 福島県会津近く耶麻郡相川村・高橋家に生まれるが母の再婚により蓮沼姓となる。独学し17歳で準教員の資格をとり、次に福島師範学校を受験するも合格ならず、上京を考え、東京府立師範学校(青山師範)受験し合格した。
 門三の青山師範学校在学中に、郷里に移民会社の福島出張所ができ事件がおきた。折からの不況で村民が応募するも移民会社は移民を実行せず保証金も戻さなかったのだ。これを知って門三は移民会社にかけあうが埒があかない。通商局長に談判し移民会社社長に会う。翌年、河野広中の弟が福島出張所長になり、前任者が使い込んだ保証金は戻らなかったが、移民ができることとなり、門三は農民から感謝された。

 青山師範学校でも、人の為を思う精神と実行力で職員生徒を動かし校風を改善、支持者は校外に広がり修養団をたちあげる元となった。はじめ飯田町の6畳一間をかりて寝起き、編集室、事務室ともした。幹事たちは昼は小学校で教鞭を執り、夕方から憂国熱烈の同志を求め活動、また機関誌を謄写版で刷り団員に配布した。

 修養団はやがて、床次竹二郎、渋沢栄一など政財界有力者の協力をえて、国民道徳の向上、社会問題の解決を目指す運動として展開。また安い食事を提供する簡易食堂や「天突体操」の普及を図った。
 昭和に入り婦人講習会を開き『白ゆり』誌は好評をえた。また企業の労働者に福祉・娯楽を提供しながら、労使協調の環境作りにつとめた。戦後は世界連邦運動、明るい社会建設運動に取り組む。

参考: 『世界大百科事典』平凡社・ 『民間学事典』三省堂・ 『近現代史用語事典』新人物往来社

 余談:
 2010年秋、福島県新地町の戊辰戦跡を訪ねた折、「世界連邦とは何か」(小塩完次)昭和33年でかなり古いリーフレットを渡された事があった。修養団の流れかは不明だが「世界連邦」に、ふと思い出した。

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