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2012年9月 4日 (火)

図書館づくり、叶沢清介(会津若松市)

 図書館大好き!本屋さんも好き、どっちも棚の前にいるだけで楽しい。歴史に興味をもってからは大学の図書館がとくにうれしい。大学の講座を受けると図書館に入れ、明治・大正期の書籍が手にとれる。和書の手触り感がなんともいえない。新聞雑誌も復刻版やマイクロフィルムで当時の紙面が見られ、広告も興味深い。薬や化粧品の広告が多い。昔も今も人の関心事は変わらないよう。
 公共の図書館もよく利用するが置いてない本でも取り寄せて貸して貰え便利だ。感謝しつつも当然のように受け止めていたが、図書館が一般人に開放され身近になったのはそう遠くない。『図書館人物伝――図書館を育てた20人の功績と生涯』(日本図書館文化史研究会・日外アソシエーツ)で知った。
 図書館が身近で親しみのある場所になるまでには先人達の熱意と努力があったのだ。その一人が叶沢清介で同書の「叶沢清介の図書館づくり―PTA母親文庫まで―」(石川敬史)に詳しい。この論文で叶沢清介を辿ると日本の図書館のなりたちも見える。

 叶沢清介(1906明治39~2000平成12)は、欧米の図書館事情に刺激され1921大正10年開設された文部省図書館講習所(34人中女子6人・1964年国立図書館短期大学)を、1929昭和4年卒業(8期生)県立長野図書館に下席司書になった。叶沢は4月赴任すると職員らと9月開館を目指し信濃教育会図書館などの寄贈図書や新規図書32000冊を整理し開館にこぎつけた。が活動の場は栃木県教育会館図書館に移る。

 1934昭和9年、栃木県教育会館図書館は教育会事務局との兼用で、二宮文庫(二宮尊徳記念文庫)時代から使用の木造2階建て。図書館は2階の男子閲覧室、1階の婦人閲覧室、小児閲覧室があり、貸出は行わず閲覧が中心であった。
 男女別閲覧といえば、樋口一葉は上野の図書館によく通ったが、きっと婦人閲覧室で読み書きしたのだろう。明治だから男女別と思っていたが、昭和もそんな時があったのだ。この図書館は翌年、鉄筋コンクリート3階建てになるが、叶沢はまもなく異動、日本赤十字社本社構内にある博物館内に併設されていた日本赤十字社図書館勤務となる。

 この図書館は赤十字社の事業とは無縁で利用者が限られていたが、叶沢は社会事業や医療関係の図書を充実し閲覧者を増やした。当時、叶沢の楽しみはテニスで、メンバーに日本赤十字社長の徳川圀順・島津忠承、東京府知事の川西実三・松村光磨、日本商工会議所会頭安達正らがいて、政財界人と知り合う。

 次に叶沢は1942昭和17年から終戦の8月解体されるまで内閣技術院に勤務、翌年3月からは文部省勤務となる。この文部省時代に、全国を対象に迷信調査を実施、結果を『雷になった神主』など刊行した。こののち長野県立図書館長となる。

 長野県県立図書館では、図書館を住民の身近なものにするため、組織や運営方法改善に力を尽くす。なかでもPTA母親文庫と県内各郡に設置された配本所が多くの注目を集めた。
“本ほど広くて深い世界があるだろうか”なのに、好きでも読めない境遇や気兼ねしなければならない女性がいる。それで「PTA母親文庫という読書の機会を安直に提供する」という点にひかれた。図書を気兼ねなく手に取れる環境づくりをした叶沢清介を紹介したいと思った。

 ちなみに図書館は貸出のほかに歴史的資料や文書を収集、提供と思っていたが、叶沢の推進した郷土の資料、地方行政資料についても欠かせない。叶沢清介を知って図書館は思っている以上に大切な場所だと再確認した。みんな図書館にね。

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