進取の女性、相馬黒光(宮城県)
東京新宿・中村屋前を歩いて、ふと中村屋のカレーを小学生だった子らと食べたのを思い出した。しゃれた雰囲気でおいしかったと息子は「これからはカレーとご飯を別々にして」という。専用のスプーンと器を買って盛りつけるともっとカレー好きになったよう。
「中村屋のインドカレー」といえば、インド独立運動志士のラス・ビハリ・ボースを匿い、作り方を伝授されたエピソードが有名。ボースをかくまう様子は相馬黒光の自伝的小説『黙移』に詳しい。読むと映画の逃走シーンを見るようだ。
当時、インドはイギリス帝国の植民地だったから独立運動の亡命志士は英国政府から追われ、日本政府も退去命令をだした。それを中村屋の人々はかくまい通したばかりか、のちに長女はボースと結婚、しばらく隠れ家を転々とする。
相馬黒光(1876明治9~1955昭和30年)は士族の娘として宮城県仙台に生れる。本名は良、旧姓星。少女時代から意志が強く、宮城女学校に入学するもアメリカ風の押しつけ教育に反発して退学、横浜のフェリス女学校をへて明治女学校を卒業した。
その明治女学校つながりで島崎藤村・北村透谷・星野天知・大塚楠緒子・羽仁もと子らの事、姪と結婚しすぐ破綻した国木田独歩についてなど率直に記している。あふれる才気を包むようにと、岩本善治(妻は若松賤子)から「黒光」を与えられたそう。作家志望で「女学雑誌」(キリスト教に基づいた婦人雑誌)などに寄稿していた。
1897明治30年、島崎藤村の仲人で長野県出身の相馬愛蔵と結婚。しばらく安曇野で暮らすも、養蚕農家の暮らしになじめないでいた。1901明治34年一家で上京。本郷で「中村屋」を開業、のち新宿に移転し店はますます繁盛、店内にアトリエをもうける。これが芸術家のサロンとなり、夫の愛蔵は側面から援助した。
キリスト教的新教育をうけ進取の気性に富んだ女性のサロンは、荻原碌山・秋田雨雀・神近市子・木下尚江・高村光太郎・中村彝(つね)ら彫刻家や文学者らが出入りした。また黒光はロシア語ができ、ロシアの盲目詩人エロシェンコなどの面倒もみている。
身辺事も隠さず、矢島楫子と佐々城豊寿(黒光叔母)という二人の有能な婦人運動家の確執についても赤裸々に綴っている。黒光その人も仕事が出来、激しいが、周囲も一筋縄ではいかない人物が少なくない。それやこれや悩むことがあっても考え、切り替えて進むところがりりしい。
黒光はキリスト教的ヒューマニズムに支えられつつも、子どもの死や自身の病気などを経験、
縁あって岡田虎二郎の静座に通う。しかし岡田が急逝すると、「霹靂一声ドカーンと脳天をぶちのめされ」静座に行かなくなった。が、やがて仏門に帰依し、熱をいれていた西洋美術よりも、仏像や仏画にひかれていった。敗戦後、老人ホームの建設をめざしたが、生前は実現しなかった。
相馬黒光は島崎藤村や国木田独歩、木下尚江らと同時代に伍し、芸術を愛し応援し、商売も発展させ精一杯、元気に生き抜いた。きっと今の世で困難にあったとしても挫けないばかりか、周りの背中を押し共に乗り越えていきそう。
参考: 『民間学事典』『コンサイス日本人名事典』(三省堂) / 『黙移』明治・大正文学史回想(相馬黒光著・法政大学出版局1961年初版)
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