« 「社会」sosietyを持たない人々の翻訳法、柳父章 | トップページ | 瀬川安五郎(岩手県)、平福穂庵・百穂(秋田県) »

2012年10月 6日 (土)

(幕末明治)学者の気風、西と東で違いそう

 「スクーリング授業“書簡に見る福澤人物史”、昨日は馬場辰猪宛だった」と歴史好きにメールしたら「それは明治7年10月12日付じゃない?」と返信があった。
「方今日本にて兵乱すでに治まりたれども、マインドの騒動は今なお止まず」ではじまる書簡は指摘どおりのもの。さすが!福澤文書を解読中という彼女に感心。

 筆者は東海散士との仲で馬場辰猪に興味をもった。馬場辰猪はアメリカで、英文小冊子<日本の政治の状態>にローマ字で“頼むところは天下の世論。目指す敵は暴虐政府”と刷込んだり、クリーブランド大統領やいろいろな人物に日本政府の事情を話すなど大胆な行動で日本政府に睨まれる(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』七章・池辺三山と馬場辰猪より)。
 そのような激しい民権家となった門下生・馬場辰猪を、福澤は突き放すことなく、その身を案じ病を気遣う親身な手紙を書いて、アメリカへ留学する者に託したのだ。それを考えると、アメリカに客死して8年もの後に「馬場辰猪君追弔辞」は、若い死を哀惜するだけでなく深い意味があると察しられる。

 さて、福澤諭吉を学ぶことになって『福翁自伝』を読んでいるが、「大阪修行」「緒方の塾風」の書生の生活、酒の悪癖/塾生裸体/不潔に頓着せず/料理茶屋の物を盗むなどなど若者の稚気、蕃カラを何と言ってよいか。
 その一方で学問への取り組み、集中は驚くほどだ。
 妙なこだわりがないから原書が一冊あれば、塾生同士助け合って翻訳し、蘭学すなわちオランダ語を身につけた。福澤は「大阪からわざわざ江戸に学びに行くという者はない。行けばすなわち教える方であった」と自慢している。

 やがて英語の重要さに気づいた福澤は江戸の蕃書調所に入る。ここで当時は貴重だった辞書を自由に閲覧し独学、発音などは漂流者を頼るなどして英語を身につけた。師がなければ自らの力で成し遂げ、誰にでも教わり気取りがなく実利的だ。

 それにしても、学問や天下国家に高い望みがあったのは、江戸や関東・東北の若者も同じだろう。貧書生は食べるにも一苦労、冬でも浴衣で布団無しも同様と思う。ただし、群れずに個個で耐えて学問に精をだしていたような気がする。東の方が、明治と時代が変わっても武士の気位が高かったのだろうか。
 当ブログでも逆境に耐えて学問に励んだ人物を、福島安正ら何人か取り上げた。昌平黌で学問する秀才を偉いと思うし、藩をこえた明治人の昌平黌つながりも興味深い。学問・漢文はさっぱりだが、自分の感性としてはこっち、東の気風がいい。
 しかし、西の緒方塾の自由闊達な気風もよさそう。こちらは、旧身分で差別をしなそう。

 実は、藤井哲博著『咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 幕末明治のテクノクラート』(中公新書)を読んでからというもの、福澤諭吉のイメージが微妙だ。でも、幕臣・小野友五郎と日本の外に目を向ける福澤諭吉、二人に気風の違いもありはしないか。そんな単純な問題じゃないと言われればそうかも知れないが、ともかく好き嫌いを言うのをやめた。

|

« 「社会」sosietyを持たない人々の翻訳法、柳父章 | トップページ | 瀬川安五郎(岩手県)、平福穂庵・百穂(秋田県) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: (幕末明治)学者の気風、西と東で違いそう:

« 「社会」sosietyを持たない人々の翻訳法、柳父章 | トップページ | 瀬川安五郎(岩手県)、平福穂庵・百穂(秋田県) »