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2012年10月20日 (土)

『小公子』若松賤子(会津若松)

 金木犀の香りにしみじみ秋を感じたら、やさしい物語が恋しくなった。そんな折しも明治1891明治24年・女学雑誌社版『小公子』若松賤子訳を見つけた。

―――(自序) 母と共に野外を逍遙する幼子が、幹の屈曲が尋常ならぬ一本の立木を指さして「かあさん、あの木は小さい時、誰かに踏まれたのですネイ。」と申したとか。考えてみますと、見事に発育すべきものを遮り、素直に生ひ立つ筈のものを屈曲せる程、無情なことは実は稀で御座り升・・・・・・(後略)

 自序の出だしから幼い子を思い、セドリック少年の物語を日本の家庭に届けたいという心が伝わってくる。「小公子」は映画やテレビにもなり今でもよく知られているが、はじめの翻訳者・若松賤子についてはどうだろう。
 若松賤子(1864.3.1元治1~1896明治29)。
フェリス和英女学校高等科を卒業、母校の助教となり教えた。キリスト教に入信。1886明治19年、紀行文「旧き都のつと」を発表。3年後、岩本善治(よしはる)と結婚、やがて『小公子』を翻訳発表。名訳とみごとな表題は夫婦教義のたまものと評判になった。英語で寝言をいうほど語学力があったという。ところが、肺患がひどくなり床につく日が多く、ついに33歳の若さで帰らぬ人となった。

 夫の岩本善治は中村正直津田仙に学び、1885明治18年『女学雑誌』創刊、明治女学校を創立した。女子教育の振興、一夫一婦制、廃娼を主張した。

 明治女学校はミッション経営でなく日本人によるキリスト教主義の学校で、教師に北村透谷島崎藤村がいた。相馬黒光、山室機恵子羽仁もと子野上弥生子らが学んだ。学校の雰囲気、島崎先生の講義、恋愛、岩本校長のこと、相馬黒光『黙移』はかなり突っ込んで記し興味深いが、ここでは若松賤子についてを引用。

―――本当の名は嘉志子といい、旧姓島田、会津若松の人なので、それをとって賤子とつけてペンネームとし、けっして長いとはいわれぬ生存の日に、実にたくさんの著訳を残しました・・・・・・お向こふの離れ/すみれ/忘れ形見(「文芸倶楽部」号外)/イナックアーデン物語/小公子/我宿の花などは『女学雑誌』に。雛嫁(『国民之友』)/セイラ・クルーの話(『少年園』)/波のまにまに(『評論』)/絶筆・おもひで(『少年世界』)。このほか小品、随筆、こどもの話など『太陽』掲載分もいれるとかなりの厚さになるでしょう。

―――病が再発また再発で、幾度か仕事を中断されながら・・・・・・ようやく後編が完成し、原稿がまだ手元にあるうちに明治女学校が火事になり原稿は灰と化したが、女学雑誌に掲載されたものをとり、一周忌の記念に上梓されたのです。

 ちなみに『小公子』は女学雑誌社発行で『女学雑誌』の広告頁がある。今では見かけない「封建思想・人道修行者・武者修行者・私利修行者」「武道家訓」の記事。そして<女学生同盟女学校>18校あるが、大津事件のあった1891明治24年にしては多いのか、少ないのか。
 いずれにしてもこの時代、女性が高等教育を受けても能力を発揮する道は狭かった。そうしてみると、女性の身で小説を発表するということは想像以上に大胆な事、エネルギーも要っただろう。
 若松賤子も著作をせずのんびりと養生していたらもう少し生き延びたかも知れない。でも、そちらを選ばなかった。そんな気がする。

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