瀬川安五郎(岩手県)、平福穂庵・百穂(秋田県)
たまたま開いた『鉱山開発の先駆者 瀬川安五郎』(山田勲・国書刊行会)に「南部家御用金被仰付人員」という番付があった。江戸の頃は何でも番付にすると聞いていたが、御用金番付は知らなかった。目次をみると、殖産興業に励んだ明治政府に沿っているようだと興味を抱いた。そして、序文(女優・長岡輝子)からも主人公が生きた時代が感じられ、瀬川安五郎伝を読んでみようと思った。
1868慶應4年「南部家御用金被仰付人員」に、西方前頭十六枚目に御用金六十両・両替屋惣助の名がある。瀬川安五郎の父、四代目惣助であるが、子の安五郎が10歳の時に死去。弟が両替屋を相続し、翌年、安五郎は父の義兄で南部藩御用達・近江屋へ丁稚奉公に入る。苗字帯刀を許された富商の主は安五郎に商売を習わせようとしたのである。
1859安政6年、瀬川安五郎(1835天保6年~1911明治44年)は叔父から両替屋を相続、六代目惣助となる。
商売に励むうち、小野組盛岡支店で生糸買い付け中の古河市兵衛(古河鉱業の創始者)と知り合う。二人は生糸を買い集め、後年、鉱山業へと進むことになる。
幕末維新の混乱期、生糸は重要な輸出品で儲かった。そのうえ安五郎は戊辰戦争時には東北諸藩に武器を納め巨利を得て、のち鉱山業にのりだす。
鉱山業へのきっかけは、小野組が秋田県の石油採掘へ乗り出したのがはじまり。安五郎は小野組秋田支店で働いていたが小野組は閉店する。ここから安五郎の鉱山業への道がつき、実業家・渋沢栄一や鉱山寮管轄の役についていた*大島高任ら中央に知己を得る。荒川鉱山が民間に払い下げられると購入し鉱山経営に乗り出し日本有数の鉱山に育てた。
*荒川鉱山:秋田県仙北郡荒川村。元禄期・川村庄右衛門-佐竹藩-明治期・官営-瀬川安五郎-三菱合資会社-三菱鉱業。
*大島高任:当ブログ2011.4.13“釜石鉄山の基礎を築いた人、大島高任(岩手県)”
瀬川安五郎の鉱山経営は新しい鉱脈を発見するなど安定し国内屈指の銅鉱山として栄えたが、1896明治29年に三菱合資会社へ売却した。
鉱山を手放し、米雑穀の卸販売などをはじめたが振るわず、76歳で死去した。
事業が拡大すれば栄えもするが大きな負債を負うこともあり、家財まで処分しなければならない事もあった。しかし、安五郎は日本画家・平福穂庵・百穂親子を応援するなど文化面の理解があった。
安五郎の家は1881明治14年、明治天皇東北御巡幸に際して御泊行在所にもなったが手放す。現在盛岡市の保護庭園となっている「南昌荘」がそれである。
瀬川安五郎と平福穂庵(すいあん1844弘化1~1890明治23)、二人の縁は荒川鉱山経営に関する事件がきっかけである。
安五郎が鉱山従業員250人余の食料や日用雑貨を調達したところ物資が欠乏、値上がりをおこした。秋田ではよそ者であるし住民が怒って荒川鉱山へ押しかけた。このとき、穂庵が旧士族や佐竹家との調停を買って出、無事解決したのである。
穂庵は、1883明治17年農商務省主催「第2回内国絵画共進会」に「琵琶行図」「北海道土人図」を出品し褒状を得、「第3回」には「乳虎図」を出品し2等、宮内省に買い上げられた。その時「荒川鉱山真景之図」「荒川鉱山鉱業之図」も出品、一躍、名を全国に知られた。この2図は、『鉱山開発の先駆者 瀬川安五郎』の口絵になっており、縮小されていても鮮明で美しい。
穂庵の死後も安五郎は穂庵の遺児、平福百穂(ひゃくすい1877明治10~1933昭和8)を見守り、援助した。百穂は東京美術学校に入学。卒業制作「田舎の嫁入」は風俗画として知られる(東京芸大蔵)。また、百穂は斎藤茂吉らアララギ派の人々とも交流し、歌人としても活躍した。次はその一首
ここにして岩鷲山のひむがしの 岩手の国は傾きて見ゆ
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<季節映す キャンバス 「盛岡市・南昌荘(なんしょうそう)>」
―――盛岡出身の実業家、瀬川安五郎が1885(明治18)年ごろ建てた明治期の邸宅・庭園で、市中心部にある盛岡城跡公園から徒歩約10分・・・・・現存する屋敷部分には大小11の部屋がある・・・・・黒光りする床には季節ごとに装いの異なる庭の木々が映り・・・・・5月の連休明けから10月までが「床みどり」、10月末からは葉が色づいて「床もみじ」となり、写真撮影は自由・・・・・(2021.10.10毎日新聞)。
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