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2012年10月28日 (日)

樋口一葉『たけくらべ』(真筆版)と露伴・藤村の序

Photo_3  大学図書館の棚に若松賤子『小公子』と樋口一葉『たけくらべ』が並んでいた。明治は文学をする女子には生きにくい世の中だったのか、二人とも若くして世を去った。
 樋口一葉(1872明治5~1896明治29)本名夏子。その生涯はよく知られているが、暮らしは豊でなく薄幸のイメージが強い。しかし、一葉は私たちが思うより、意見があればしっかり言い活発だった様子。文学仲間との交流もあり評価されていた。
   『たけくらべ』(真筆版)1968昭和43年、近代文学館・復刻版。
 開くと挿絵、流麗な筆文字の本文。一葉の手跡で読めば、ヒロイン美登利や吉原界隈の風情が活字より伝わりそう。ふりがなもついている。でも読めない。読めないって威張ってどうすると言われそうだが、生前の一葉を彷彿させる二人の文学者の「序」を紹介したいと思ったのである。

 短い生涯。22歳「大つごもり」「にごりえ」、23歳「たけくらべ」「十三夜」、そして没年の24歳「わかれ道」「われから」を発表している。
 月夜に夜道を歩くと、ふと、「わかれ道」ヒロインお京と孤児の三吉の佇まいが思い浮かぶ。一葉の作品は読み出しから、すっとその世界に入れて忘れられない。すごいと思う。早世の人は人間を見る目が深く、才能の開花も早いのだろうか。

 日記『みづのうえ』の一節

―――雨風おびただし。午後二時ごろはからず三木君、幸田君を伴ひ来る、はじめて逢ひ参らす、我は幸田露伴と名のらるるに・・・・・・*めざまし草に小説ならずともよし、何か書きものを寄せられたし、こをば頼みに来つるなりといふ。

 *『めざまし草』:(目不酔草)文芸評論雑誌。森鴎外斎藤緑雨幸田露伴による作品の合評[三人冗語]で「たけくらべ」を激賞したのは有名。

 
 1918大正7年10月 幸田露伴 「序」

 一葉女史の才の逸と文の妙とは、世既に定評あり、今更に何をか言はんや・・・・・・予が女史の才を重んじ文を愛するの心の今に於てかはらぬ
・・・・・・女史を訪ひしことあり、身の丈は高からず、春の樹の小雨にたをやぎたる如く、やはらかにおとなしき人なりき、起居しとやかに、ものいふ声音も浮きては聞こえず、言葉づかひさすがにうるはしく・・・・・・この君、内の才は錐すでに嚢にたまらぬ鋭さあり
・・・・・・まだ生若き身の若き婦人を足近く訪はんことも憚りありとも思ひ過ごせる中、やがてその病めるを聞き・・・・・・その不幸短命を傷むのおもひにたへず、人生は短く芸術は永し、女史の文、今なお生きて女史の才、終に死せず、これ寿無くして寿ありといふべし

 1918大正7年10月 島崎藤村 「序」

―――近ごろはいろいろな方面に偶像破壊者が起こってきた。新派の婦人がしきりに一葉破壊を企てて居るのも矢張それだ。
―――一葉の破壊が始まったのは、あの日記が公にされてからのことだ。
―――破壊された後の一葉には何が残るだろう・・・・・・当時の文学の空気の中で、あれだけに自分の創作を日常生活に近づけたことや、あの才気ある風俗の観察や、女としての激情などは一葉の価値を定めさせるものであらう・・・・・・あの言葉と言葉の間から湧いてくる豊かな感情や底に籠もるしみじみとした心持ちが残る

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