カラフト一周、北辺の守りを説いた岡本監輔
慶應4年から翌明治2年(1868~69)にかけて戦われた戊辰戦争。江戸・上野で旧幕臣の彰義隊と大村益次郎率いる新政府軍が戦うさなかにも福澤諭吉は英書で講義をしていた。いっぽう北辺では、岡本監輔(1839天保10~1904明治37)が、侵出するロシアから国境を守ろうと奔走、まずは奥地探検をしていた。時代は一色ではない。
内戦は幕府方が敗れても続いていたが、新政府は「王政復古」を各国に告げ、早くも えぞ地開拓の論議がはじまった。1869明治2年開拓使がおかれ、えぞは北海道と改められる。開拓使長官、佐賀・鍋島直正に“北門の守り、国防体制の整備と殖民開拓”が課された。
1861文久1年、阿波(徳島県)から江戸に出、杉原心斎の塾に寄宿中の岡本監輔は『北蝦夷図説』(間宮林蔵)を見つけた。それにより「北えぞ地すなわちカラフトはもともとわが国の領土であるのに、ロシア人が出没して重大な情勢である」と知り、北の守りを厳重にしなければと決心する。しかし混乱の時代に北に目を向けるものは少なく説得できなかった。
でも、あきらめず、やがてツテを得、新潟から船で箱館に赴き探検に出発する。
単身で陸路を北上し宗谷、シラヌシ、クシュンコタン、トンナイチャ、サカエハマ、ワーレ、山超えして西海岸クシュンナイ、ウショロ、ナヤシの北シルトタンナイまで行った。地形・気候・産物、原住民の風俗習慣、日本人・ロシア人の活動状況などを調査したのである。この探検で監輔はカラフトの地が肥え、資源に富み、寒さは厳しいが住めるのを確認した。
翌年、海氷が解けるとふたたび探検にでた。船で東海岸のタライカ地方(アイロ、シッカ)を見、シララオロで越年、翌春、奥地探検に向かう。
監輔は丸木舟を買い入れて北進、間宮林蔵が引き返したシンノシレトコを過ぎ日本人未踏のカラフト最北端、ガオト岬に達した。ここで天照大神を祭り里程と氏名を記した標柱を立てた。岡本監輔27歳によってカラフト一周がはじめてできたのである。
カラフトに多くのロシア人が住み石炭を掘り耕作するのを見聞した監輔は、おろそかに出来ない状況を広く世間に知らせようと行動を起こす。またこのころ知り合った山東一郎(直砥)と北門社を結成、また山東の紹介でロシア人宣教師ニコライ(のち神田ニコライ堂を建設)を知る。
さて、監輔は山東と二人江戸に赴いたが、辺境の事は顧みられない。あきらめず奔走するうち、箱館裁判所(清水谷公考総督・幕府からえぞ地経営を引き継ぎ新政府に定着させるために)が設置され、監輔は権判事に任命された。
カラフト行政の全権を委任された監輔は各地に出張所を設け、警備を厳しくして漁場の開拓、山林の開墾、原住民の生活安定に努めていた。ところが、榎本武揚ら幕府脱走軍に箱館が占領されてしまった。新政府軍の総攻撃により榎本らが降服するまでの半年間、えぞ本島との航海が途絶え、通信も不通となった。その間、監輔らはじっと耐えていた。
1969明治2年5月、戊辰戦争終わる。7月、監輔は開拓判官、8月、外務御用掛兼任となりロシア対策にあたるも、開拓次官・黒田清隆の消極的政策と意見が合わず辞職した。
とはいえ、北の守りは急務であり有識者に呼びかけようと『窮北日誌』を刊行した。以上、『開拓につくした人々 2』(北海道の夜明け/北海道総務部文書課・編集より。
著書多数、『義勇芳軌』『小学修身新書』『古今文髄』『国史紀要』『万国史記』etc。
前出の事柄、またその後について『岡本監輔自伝』(徳島県教育委員会)に詳しい。次はその一部。
室蘭において荒井氏と樺太の事を談ず・ 坂本龍馬に樺太の事を語る・ 三たび樺太に赴く・ 島民及露人に大政一新の旨を告知す 露人「ボーコーニク」と居留事件につき談判す・ 岩倉、大久保諸大臣に抵り北地危急の情を陳す・ 神奈川県雇員・ 長崎師範学校雇員・ 1875明治8~10年中国旅行・ 陸軍省参謀局編集課雇員・ 東京大学予備問教諭その他。
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