兵馬騒乱をよそに塾の課業はやめない
―――明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋もみな休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱なれども、わたし(福澤諭吉)はその戦争の日も塾の課業をやめない。
上野ではどんどん鉄砲を撃っている。けれども上野と新銭座とは二里も離れていて鉄砲玉の飛んでくる気づかいはないというので、ちょうどあのときわたしは英書でエコノミー(経済)の講釈をしていました。だいぶそうぞうしい様子だが煙でも見えるかというので、生徒らはおもしろがって、はしごに登って屋根の上から見物する。―――こっちがこのとおりに落ち着き払っていれば、世の中は広いものでまた妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋のことを知りたいとう気風はどこかに流行して、上野の騒動が済むと奥州の戦争となり、その最中にも生徒は続々入学して塾はますます盛んになりました。
『福翁自伝』(慶應義塾)
上野の戦争・奥州の戦争
西郷隆盛と勝海舟が高輪の薩摩藩邸で会見し、慶喜の恭順謝罪、江戸城明け渡しが決められた。江戸城は開城、新政府軍が入城した。しかし、旧幕臣の彰義隊と脱藩の武士ら二千余人はこれにおさまらず、上野の山にたてこもって抵抗した。この上野戦争で寛永寺の堂塔伽藍の殆どが焼失してしまった。
上野広小路から動物園に向うあたりは最も激しい戦闘があったが、総攻撃され僅か一日で敗れ去った。この戦闘に会津人もかなりまじっていて柴五郎の従兄弟も討死した。生き残った者は新政府へ武器・軍艦を引き渡すことを不満として、江戸を脱走し各地に散った。そのため関東地方が抵抗の地盤となり、新政府軍は関東へと攻め寄せた。そうして会津へと迫るのであった。
敗れてなお主戦論をとなえる幕府陸軍の大鳥圭介もまた日光を目指して江戸を脱走、海軍の榎本武揚は旗艦開陽に乗って北へ向い、函館の五稜郭に陣を構えた。
鳥羽・伏見の戦いにはじまり、新政府軍の東征、江戸城無血開城、奥羽列藩同盟の長岡・会津戦争と続いた戦いは、函館の五稜郭で旧幕府海軍が壊滅して終結した。この戊辰戦争は1868慶応4年1月から1869明治2年5月まで続いた。
自分は会津人・柴五郎ひいきなもので、戊辰戦争の時節を戦争一色のように思い込んでいた。考えてみれば、日本も狭いようで広い。人の考え方も生まれや育ち、地域、学問知識からも異なる。同時代人でも生き様が違って不思議はない。先見の明がある側は偉い。とはいえ、人情としてはね。
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