戊辰戦争スネルと横尾東作(仙台藩士)
幕末明治を辿っていて波瀾万丈を地でいく人物に出会うことがある。横尾東作(1839天保10~1903明治36)もその一人と思うが、あまり知られていない。
しかし近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ 『横尾東作翁傳』(1917大正6年、編著・河東田経清)があるので、いつか歴史小説の主人公になることがあるかも。序・大月文彦(大月盤渓3男)。
福澤諭吉の慶應義塾と横浜で英語を学んだ。戊辰戦争中は奥羽越列藩同盟で能力を発揮、そのときの活躍を、伝記は物語風に述べている。中にはホント?というような場面もあるが、列藩同盟の内情が垣間見える。
横尾の往くところ多くの人間が交錯。知る名前がかなり出る上にある者は臆病だと名指し、戦の混乱を右往左往する状況を浮かび上がらせる。
安政五カ国条約により開港となった新潟で、軍資金不足の列藩同盟のために横尾東作はスネル(弟・兄弟で幕末維新期に暗躍)の元を訪れる。
―――蚕卵紙(蚕の卵が産み付けられた紙)を買って呉れるかどうか尋ねると、スネルは買うという。そこで金子入用の際であるから一万枚だけ売ろうともちかけた・・・・・・スネルは承知し、「二千両を差上げましょう。丁度相馬藩から鉄砲の注文があるので、相馬へ行き蚕卵紙もそこでお渡し願いたい」ということになり金策は成功。
<借財二千両の跡始末>
―――(東軍が敗北)新潟の軍隊は散り散り見る影もない。スネルから借入れについては約束の蚕卵紙は引き渡せず、返す金も無しに。
―――(ところが)逃げ損なったスネルは西軍(政府軍)の捕虜となった。密貿易、武器輸入を糾弾されたものの、白状すると外国人なので放免されたばかりか、東軍に掠奪され無一物になったとして、損害賠償を求める始末。政府はやむなく支払ったという。
―――(横尾の話)1870明治3年にスネルを訪問した時、馳走してくれ貸金の話はなかった。とれる見込のない仙台藩に二千両の請求などして藪蛇をつつきだすよりも男らしく澄ましこんで居る方がよいと考えたからだろう。
明治維新後、横尾は山東直砥の北門社で英学を教えたが、まもなく仙台藩知事の招きで仙台に英学校(辛未館)を設立。しかし文部省令で廃止、次1873明治6年神奈川県庁に出仕。このとき修文館校長を兼職し英語を教え生徒も多かったが、又も教育令の改正で廃止。明治草創期、政治はもちろん教育制度も混乱があった。
3年で神奈川を去り警視庁に外国係として10年間奉職、佐和正(当ブログ2012.7.22明治の少警視・青森県知事)を知る。
退職後、英書『童蒙教育問答』を翻訳出版。さて神奈川時代に次の話を聞いて大いに刺激を受ける。
―――榎本武揚ロシア公使たりし時、スペインから赤道以北の地を日本に売らんとするの交渉があった・・・・・・買ひ得るものならば買ったらよかろふと榎本に話をしてみたが、今ですら外交に懸けてはとかく退嬰主義の日本政府であるから、そこは南洋を我が版図に入れるなどといふ事は夢にも思ふていない
そこで、自らのりだした横尾は、逓信大臣になったいた榎本に建白書を提出、灯台巡回船となっていた明治丸(2011.7.22明治丸と奥羽・北海道巡幸)で硫黄島探検の航海に出た。以来、南洋に興味をもち南洋貿易や殖民などを企画した。
ちなみに1893明治26年、榎本の主唱で殖民教会が設立され、発会当時の会員は400名。
1899明治32年、横尾はふたたび南洋諸島航海に出る。その4年後、小石川の富田鐵之助(横浜火災保険社長)邸で没した。享年64歳。
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