ある早稲田つながり、北門義塾・内ヶ崎作三郎・直木三十五②-1
このところ福澤諭吉・慶應義塾を挙げたので、今度は大隈重信・早稲田つながりを挙げてみる。まずは『大隈侯昔日譚』より
―――この早稲田といふ土地は昔封建時代には、大名の別荘などがまれには在った所で、我輩の此屋敷は高松の殿様松平讃岐守の屋敷で、唯の一軒家であったんである・・・・・・今学校の在る所は、井伊掃部頭の別荘地で、井伊と松平の領家は親戚の間柄で・・・・・・
封建が廃滅となって、一時開墾が流行した際に、掃部頭の旧領地は開墾されて、山東一郎並びに、林伯(董)の実兄で、始めて我国に西洋の醫術を開いた松本順、此両人が病院と学校を創めたことがあるんである。不幸にも其の学校は目的を達する能わずして、又も元の荒野となって居たのを、我輩が買ひとった。しかし未だ常住の所とはせず、我輩は雉子橋の邸に住んで居たんである。
大隈さんの言う学校を運営していた山東直砥(一郎)は分厚い漢和辞典に英語を附した辞書『新撰山東玉篇 英語挿入』(1878明治11年)を発行している。
外国人教師や林董などを招いて英学などを教えた学校は、北門社または北門社明治新塾といい、1871明治4年の生徒数34名、福沢諭吉の慶應義塾(英学・生徒313名)、箕作秋平の三叉学舎(英仏学・106名)、中村敬宇の同人社と並び、東京有数の学校であった。
北門社の塾生募集要項をみると「月謝は金二両、何人に限らず教えを受けることを欲せば来たり入社すべし、西洋人が英仏独逸学ならびに算術を教授す」とある。
塾生にシベリア単騎横断で知られる福島安正(のち陸軍大将)がいる。若き日の安正は衣類、書籍を売り払って学資に充て冬でも単衣の薄着、寒さの夜は大声で読書して凌いだ。ここで外国人から学んだ地理学が後の大陸横断に役立ったという。ほかに柴四朗・東海散士もこの北門社で学んだ。
余談ながら、柴四朗の弟柴五郎(のち陸軍大将)は義和団の乱・北清事変で大活躍、映画【北京の55日】にも登場(柴五郎役は伊丹一三)した。五郎は共に戦った欧米人から賞賛され助言を求められた。鎮圧後は、天津から軍を率い救出にきた福島安正と手を携え北京の秩序回復に努めた。この時、柴五郎は「柴大人」と中国人にも慕われる働きぶりであった。現在のねじれた日中関係の中で、このような日本人がいたことが思い起こされる。
さて、北門義塾を創立したのは岩手南部出身の柳谷藤吉という立志伝中の人物である。赤貧洗うが如しの境遇から北海道に渡って成功し、戊辰戦争時には兵器を外国人から買うほどの財をなした。そしてその武器を旧幕軍と官軍の双方に売り一万円ほど利益を得た。そのとき柳田は思うところがあり、金の使い道を福澤諭吉ほか人に相談すると、学校をつくるのが良いだろうと言われた。そこで、北門義塾を創立し山東一郎(直砥)らに後を託して自分は北海道に帰っていった。
この柳田藤吉について、高田早苗[半峰昔話]に「内ヶ崎教授が書いたものを見た」とあったので『早稲田學報』(早稲田大學校友会)を探してみたらあった。
<早稲田校史の一挿話> 教授 内ヶ崎作三郎
早稲田は明治の初年より教育事業に密接なる関係を有しゐる。現に消失前の大隈邸に明治二年頃北門社新塾と言ふ私学の存在していた事は、市島先生の懐古談にも記されてゐる。然るに過般、北海道に赴いて、根室に於て偶然校友柳田鐵三君に面会して、是に関する材料を集むる事が出来た。同君は北門社新塾の創立者柳田藤吉翁の孫養子に當る方である(中略)
――明治三年春、函館にこの新塾の分校とも目すべき北門社郷塾を設けて三年間維持した。
――大隈侯が早稲田學園を、早稲田に創設せられたる動機は、北門社新塾等の物語を知って居られたと云ふ事が、一つの原因ではあるまいか。何れにしても、北門社新塾の物語は、早稲田校史に於ける、甚だ興味ある一挿話である。
同<校報>欄: “早工卒業證書授與式”早稲田工手学校第28回、卒業生317名、高田総長の懇切なる訓諭ほか(『早稲田學報』大正十五年九月十日発行 第三百七十九號)。
②-2へ続く
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