高等文官試験と慶應義塾
歴史好きカルチャーおばさんは興味の赴くままにあちこち。特に大学のオープンカレッジはいい。何故か、それは図書館に入れるから。母校の法政や早稲田の図書館を利用、明治・大正の本が手に取れうれしい。国会図書館デジタルコレクション http://kindai.ndl.go.jp/ でかなりの本が自宅パソコンで読めるが、やはり実物には明治・大正の匂いがある。
明治大の講座にも行くが慶應大に行きたいと思った。何たって戊辰戦争中も授業をしていた位だから色々ありそう。しかし、講座も見当たらず図書館に入る手立てがない。それで通信教育を申込み学士入学、さっそく図書閲覧してる。
卒業を目指さない(できそうもない)から、興味のある学科のみ受講している。これが思ったより楽しく興味深い。
たとえば【明治14年の政変】。大隈重信と関係者の一斉下野、東京専門学創立(現早稲田大学)が思い浮かぶ。これに慶應では次が足される。
―――北海道官有物払い下げ事件に端を発し、大隈を罷免し、大隈派官僚を一掃したクーデターの究極の目的は大隈にあったのではなく、陰の立役者の井上毅が「内陳」で述べたように「福澤の交詢社はすなわち今日全国の多数を籠絡し政党を約束する最大の器械」という恐れだったのであり「民権運動家」に絶大な影響力をもつ福澤との対決にあったといえる(川崎勝「馬場辰猪・福澤門下の民権家」)。
―――井上毅の福澤攻撃や慶應義塾関係者も官界から追放、以後、慶應義塾出身者は実業界へ進出するという動きが形成される、その淵源となった。
慶應の通信生となって一年過ぎたがしっくりしない。慶應義塾ラベルが自分には似合わないからだろう。ただ、学校名は通りがいいので話が早い。スクーリングにと言えば「三田に行くのね」となる。誰でも知ってる慶應義塾、それでも明治期に不振の時があった。
維新政府が秩禄処分を行うと士族は収入が減り、生活が困難になった。慶應義塾に入る者(入社生)は、ほとんど武士の子弟だったから数が減った。そこへまた西南戦争が追い打ちをかけた。塾の収入は激減、経営不振に陥いるも慶應義塾維持法案を作るなどして努め維持存続した。
ところがこの年「明治14年の政変」が起き、結果は前述の通りで芳しくない。なのに1883明治16年徴兵令が改正、慶應義塾三等以上の学生にあった「徴兵免除特権」が消滅、100名近く退学者がでたという。さらに学制改革が行わり、私立学校は国家を担うエリートの養成機関から外される。
時の文部大臣・森有礼は「教育は国家のため」という。福澤の「一身独立して一国独立」とは正反対だ。
国家を最優先にする理念のもと帝国大学令が公布され、帝国大学法科・文科大学の卒業者は無試験で行政官僚になれる特権が与えられた。慶應義塾は文官任用試験の受験資格すら得られず凋落する。
1888明治21年、東京仏学校+東京法学校(法政大学)や東京専門学校(早稲田大学)などの法律学校7校は特別認可学校に指定され「文官高等試験・判事検事登用試験」受験資格が与えられた。
―――それとひきかえに私立学校は学則、名称など細かい規制をうけ、在野的精神・自由民権法学との内容的結合を失う。
1890明治23年、慶應義塾は大学部を設置、各種学校を抜け出した。教師は英語レベルアップにハーバード大学からアメリカ人3人、法科に帝国大学出の日本人を招いた。
1893明治26年文官任用令制定。慶應義塾も「判事検事登用試験受験資格」を得、司法官僚への道が開ける。ちなみに「文官任用令」制定により、帝国大学への無試験特権は廃止されるも予備試験は免除、私立学校は予備試験からのスタートである。
*文官任用令: 官界からの政党勢力の締め出しを図るため、1899明治32年、第2次山県内閣により試験任用が拡大され従来の自由任用を制限する改正がなされる。
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