会津藩士のカラフト、明治の教育者・南摩綱紀(福島県)
カラフト探検もし北の大地を守るべく力を尽くした岡本監輔(文平)だが、やむなくエゾ地を去ることになり『窮北日誌』を著した。それに4人が序をつけている。「序」南摩綱紀、「窮北日誌叙」竹逕海保と紀州・山東一郎 、「叙」仙台県・鹿門岡。
岡鹿門(千仞)は山東一郎(直砥)と縁があり、岡と南摩は昌平黌の学友つながりだが、岡本と会津藩を代表する漢学者・南摩との関わりは何だろうと気になった。
―――(幕末)会津藩士は京都守護職となった藩主・松平容保に従い国元を出発。柴四朗少年も戦うべく上京したが、病身で背丈も大きくなく同年輩より幼く見える。しかし本人は陣中で腰に両刀、肩には小銃、手には槍と意気盛ん。人は「おかしくも又健気なり」と少年の血気を見守った。四朗はその一方で南摩綱紀に漢学を学ぶ(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)。
南摩綱紀(1823文政6~1909明治42)。通称は八之丞、号を羽峰。南摩の祖先は下野国南摩城主、会津藩では上級武士であった。藩校日新館で学び江戸の昌平黌(昌平坂学問所)に入学、同藩の秋月悌次郎はもちろん岡鹿門、松本奎堂らを知る。また蘭学も学ぶ。
学成り、関西や九州を見聞して(『負笈管見』)会津に戻り、藩校教授を勤めた。
1862文久2年、樺太戍衛(カラフト警備)を命ぜられ、のち代官。6年間、現地人の教化に勤めた。北の警備について『ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書』に次の一節がある。
―――内憂外患こもごも到り幕政悩ますこと数十年、北辺にオロシア軍上陸すれば松前藩は頼むに足らず、会津藩士を遠く征伐に赴かしめ・・・・・・礼文、利尻より侵入軍を追い払い、のち藩士ほとんど病没す。今は北辺の海岸近く会津藩士の墓、陣屋跡の石碑など淋しく
南摩にとり『窮北日誌』は他人事でないのだ。共感をもって「吾が友文平、岡本兄、夙にけんけん(悩み苦しみ)の志を抱き北蝦をひらくを以て己が任となす。かつて全島を周歴し風土を観、人情を察し、開拓の方、撫御の術、深思熟慮・・・・・・」と序を寄せた。
しかし幕末の動乱期、会津をはじめ東北諸藩は北の大地より心配しなければならない事がのし掛かる。藩主容保が京都守護職となった会津藩一同は京へと向かう。会津藩は京の都で武備を整える傍ら学校を設けた。南摩は校長として子弟の教育にあたり、柴四朗も学んだ。しかし、鳥羽・伏見に敗れ、終わる。
会津藩は京を引き払うも南摩は大阪で情報収集してのち会津に戻る。さて、戦い迫り南摩は奥羽越列藩同盟の結成、列藩各藩との連絡、調整に尽力した。しかし敗戦、南摩は越後高田藩に禁固、甥の南摩八三右衛門は討死、その母と娘二人も自刃という悲劇に遭った。
明治になり、南摩は許されて淀藩に招かれる。のち京都中学に勤務、漢学の名声により明治政府によばれ太政官出仕。のち東京大学教授、東京高等師範学校教授などを歴任。
日本弘道会副会長(会長西村茂樹)のころ、新潟県から増村度次(朴斎)が南摩を頼ってくる。戊辰後、謹慎していた高田藩の縁か。増村は私立中学・有恒学舎(県立有恒高等学校)創立者で漢学の修行はもとより学校創設の相談にものってもらう。南摩は学校の建築図面を文部省に持参、建築係長と面談するなど世話をした(『明治の精神』古川哲史)。
著書は『内国史略』他あるも漢文で筆者には読めない。『追遠日録』(下野紀行)については訳注(道坂昭廣『四天王寺大学紀要47号』)がある。開通間もない川蒸気船や蒸気機関車が登場、元会津藩士が乗ったと思うと時代変化のスピードにハッとする。
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