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2012年12月28日 (金)

ある早稲田つながり、北門義塾・内ヶ崎作三郎・直木三十五②-2

  内ヶ崎作三郎(1877明治10~1947昭和22)。宮城県、号は愛天。父は本陣をつとめた内ヶ崎家の分家・内ヶ崎作太郎。東京帝国大学卒業、オックスフォード大学へ留学。帰国後、大隈重信より懇請され早稲田大学教授。のち政界に転じ1924大正13年衆議院議員、1939昭和14年立憲民政党幹事長。大政翼賛会総務。「議会報告書」『国際連盟』『人生と文学』など著述あり。

 また、『早稲田學報』263号(1917大正6)に、内ヶ崎作三郎<東北3県学事視察報告>(宮城県黒川郡)・高杉龍藏<学事視察報告>(青森県弘前)がある。読むと、当時の中学校や高等女学校の英語授業など垣間見られて興味深い。
 ちなみに当時、総理大臣は大隈重信、文部は高田早苗、同号巻頭は「大正六年の初頭に立て教育を思ふ――大隈総長」である。
<校友会報>は戊申倶楽部例会=毒文会忘年会=名古屋校友会=上海早稲田会=北京同学会=校友動静ほか。

 この内ヶ崎教授の生徒に直木三十五がいる。ご存じ「直木賞」由来の大正・昭和期の小説家である。本名、植村宗一(1891明治24~1934昭和9)。流行作家として活躍、知識人にも好まれる作品を書き、大衆文学の向上に貢献した。筆名について、

―――三十一から二、三としてきたら「悪い洒落はよせ」といわれ・・・・・・・・畳、女房程度に於いて時々取り更えるのも、二三日は新しい気がしていい。畳更え程度の改正である(改名披露)。その死後、制定された「直木賞」は新人の登竜門として今日にいたる。
 直木の家は貧しかったが市岡中学をへて早稲田大学に進んだ。しかし、学費滞納で卒業にいたらず中退。同級に、早大で教壇に立った木村毅(作家・評論家・明治文化研究家)、青野季吉(文芸評論家)、宮島新三郎(英文学者・評論家)、保高徳蔵(小説家・編集者)らがいる。

 さて、内ヶ崎と直木の関係は、帝国大学出の先生と週に1~2度顔を出すだけの生意気学生、良かろう筈がない。 エピソードを<東京紅団>“直木三十五を歩く”2008.8.9より。http://www.tokyo-kurenaidan.com/naoki-35-4.htm


―――(直木三十五は)ある日、高師部で何を教えるのだろうと、教室にいると、その時間は内ヶ崎作三郎氏の英語の時間で、田舎の開業医みたいな肥った氏が入ってきて、倣然として、一同を睨み返した。後年、政治家に成るような人だから、高師志望の学生など、高をくくっていたのだろう。私は、一番前の列にいたが(何んて、生意気な教師だろう)と反感をもって、こっちも、下から睨みつけていると
「一体、諸君は、英語を何の為に学ぶのかね」
 と、喇叭みたいな声を出して、第一日、最初の口を切った。高師部の人々だから、皆おとなしい。黙って、答えない。すると
「おい、君」
 真下の僕を、指さした。僕は、かっとなった。
「愚問ですね」
と、答えると共に、脂切って、肥った面がむかむかと、憎くなってきた。正面から、作三郎を呪みつけて、立上ると
「吾々は、小学生じゃありません。何のために学ぶかなどと、そんな質問をしなくてはならぬような幼稚な生徒に、何のために、教えるんですか」
 と、やった。作三郎、さっと、真赤になると
「生意気だ」

 さらに同級生の文芸評論家・青野季吉と作家・人物評伝の村松梢風、二人の直木評を『この人 直木三十五“芸術は短く貧乏は長し”』(尾崎秀樹監修・鱒書房)から。

―――(直木は)何故か坪内逍遙のシェークスピアの講義がきらいで、わずか2、30銭で買えるテキストも買わずに、僕らがその面白い講義振りを話したり、細かく訳を書き込んだテキストをもっていると、直木は黙って冷笑的な笑いで答えていたのを覚えている・・・・・・別にこれと云う勉強もせず、長火鉢の前に子猫を抱いて、案外つまらなそうな顔でもなく、ただ黙然としている直木を見るとこの男は何を考えてこうしているのかと、不思議に思ったこともたびたびあった。
しかし話してみると、見かけによらず興味の範囲もひろく、英語なども相当に読めるので、これは中学時代にやはり勉強した人間だとも考えたりした(直木の早稲田時代/青野季吉)。

―――直木の書く、悪辣無類のゴシップが、文藝春秋誌上で一番受けて、読者を吸収したのである。たいていの人は、読者というものは、人を賞賛する文章を読むよりも、その人の裏面をあばいてボロクソにやっつけたり、過去現在の悪徳や悪行を書き立ててある記事の方をおもしろがる・・・・・・我が身に思い返して、すぐに信じ易いからである・・・・・・
しかし、直木の文藝春秋に対する貢献はゴシップばかりではなく、あらゆる企画を創案して菊池に実行させた。同誌の新機軸には、直木の智恵が多かった。菊池が破格に直木を重んじたことは云うまでもない。死後には直木賞まで制定して、彼に酬いた(村松梢風)。

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