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2012年12月15日 (土)

東奥義塾・青森県会議長・キリスト教、本田庸一(青森県)

 日本はこれから先どうなるんだろう、不安。選挙が近いが混沌、どこの誰に入れたものやら。ただのおばさんでも国の行く末が心配、こんな世の中になるとは思わなかった。でも明るいニュースもある。山中伸弥教授ノーベル賞!医学生理学賞に選ばれた。
 遠いようで近い歴史、黒船来航後の日本、大変だった。大変革、内戦、不安も半端じゃない。でも生き抜こうとするエネルギーに満ちていた。官に、実業にと若者のがんばりが今の日本を造ったかも。それには地域の人材養成に努めた学校が後押ししたかもしれない。

 かの慶應義塾で学んだ児玉仲児(紀州の奇傑、民衆の父)は郷里の粉河に猛山学校を作り郷里の子弟教育に力を尽くした。同じく慶應義塾で学んだ菊池九郎(政治家教育家)は本多庸一と青森に東奥義塾を創設して人材養成につとめた。
 ちなみに、明治天皇が東北巡幸のおり東奥義塾に立ち寄られたが、賛美歌の一部JesusLordと訂正して歌ったとか(『回心物語』1933田中亀之助著)。

  本多庸一(1848嘉永1~1912明治45)弘前藩(津軽藩)本多久本の長男。
 戊辰戦争時、本多は二十歳の血気盛り。奥羽同盟のために同藩の菊池九郎らと庄内藩に使いし藩主にも謁見、小銃250挺と小船を得て帰藩した。ところが、藩論は奥羽同盟を抜け隣藩を討つ計画に一変していた。本多らは庄内にとって返し処分を申し出るも、義気に感じた庄内藩はこれを許した。

 戊辰戦争後、時勢は変わり藩内の子弟を留学させることを競うようになり、1870明治3年、本多は藩命で弘前藩門閥の子弟らと、かれらの監督もかねて横浜に留学。修文館教師ブラオンの塾やバラの家塾に入る。
 翌年、廃藩置県となり藩からの学資が途絶え帰郷、しかし再び横浜に出た。やがて高島学校の教師バラより洗礼を受ける。死生の間を往来した武士が洗礼を受けたのだ。
『回心物語』にはキリスト教指導者と門下の名がある。中部日本マクドナルド・新撰組の結城無二三や江原素六、北海道クラーク博士・新渡戸稲造、熊本ジェンス・海老名弾正、横浜バラ・植村正久etc。

 横浜から戻った本多は、先ず東奥義塾に力をつくし英語教師としてイング宣教師を招いた。東奥義塾出身者には東海散士柴四朗、珍田捨巳(のち侍従長)、佐藤愛麿らがいる。

 西南戦争後、自由民権運動が盛んになると、本多は国会開設請願のため建白書をもって上京するなど奔走した。ちなみに建白書の起草者は陸実(羯南・当時青森新聞記者)。
 1882明治15年、県会議員に当選。中央政界での活躍をも期待されたが、県会議長4年の任期を終えると宗教界に転じた。「本多という人は誠に聡明な人だ」(陸奥宗光外務大臣)。
 さて、本多は故郷を離れ仙台教会の牧師になったが、翌年、東京青山の英和学校に赴くが1年で去り、宿願のアメリカ留学(ドリュー大学)に赴いた。時に41歳。

 1889明治22年の国会開設を前に、アメリカにいる本多の元に、来るべき第1回衆議院選挙出馬要請の電報や手紙が引きも切らずで、悩む本多。右せんか左せんか。
 その折しもペンシルバニア州スクラントン郊外で不思議な体験をし神の摂理を感じる。さらに1889明治22年発布の憲法には「宗教家の代議士を禁ずる」条項があった。江原素六は伝道師を辞し政治界に打って出る。しかし本多はこの後、宗教界の道をまっしぐらに行くことに決め、帰朝を見合わせ、ドウルー神学校に1年在学してのち帰国した。議員にならない本多に失望する者がいたという(『実験場の宗教』川崎巳之太郎)。

 以後、青山学院院長を17年間、日清戦争では全キリスト者を代表し、日露戦争では国家的使命を帯び欧州に使いする。1907明治40日本メソジスト教会初代監督、また日本キリスト教会青年会の結成に参加し、その指導にあたる。長崎にて没。

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