柳田藤吉/貿易ことはじめ(岩手・北海道)
けやきのブログⅡも4年目になり記事は約223件ほど、読んでくださってありがとうございます。コメント、間違い指摘もありがたく励みになっています。
記事が増えるにつれ同じ人物が複数回登場している。柳田藤吉もその一人でユニークなエピソードの持ち主だからそれらを紹介してすませていた。しかし、『北海道の夜明け――開拓につくした人びと』(北海道総務部文書課編集1965.3.31)を読み、誰もが知る有名人物は別にして、事績がありながら知る人が少ない人物はもう少し丁寧にと思った。
その『開拓につくした人びと』をもとに、激動の時代を元気いっぱい生き抜いたばかりか財をなし、社会に還元もした男の一代記紹介してみたい。写真も同書より。
柳田藤吉、幼名徳助は12歳のときに陸中閉伊郡(岩手県)遠野の佐々木藤兵衛について商業を見習った。幕末、ペリーが再来し日米和親条約が結ばれ下田・箱館が開港されると17歳の徳助は箱館にわたる。
ここで越前(福井県)の柳田治郎右衛門と知り合い、その援助により商店を開いた。屋号を柳家とし名を藤吉と改める。なお、のちに庶民にも苗字が許されると柳田姓にし、柳田藤吉を名乗るのである。
藤吉青年はたちまち能力を発揮、間口を拡げ、箱館に入港のイギリス戦でやってきた商人アストンと取引をした。このとき南部産の大豆千石(約130トン)を売り渡したのが函館開港最初の貿易といわれる。
次に昆布を千石(150トン)売り、膨大な利益を得た。外国貿易に成功すれば膨大な利益を得ることを学んだが、失敗もあり損害も大きかった。しかしめげない。次は、刻みこんぶの製造業をはじめる。北海道における刻みこんぶ業の最初である。
さらに仲間といわしの玉かす(肥料)を買い入れて江戸に輸送もした。
戊辰戦争となり藤吉は箱館在住の庄内藩留守居役から庄内藩士600人余りの輸送を頼まれると、プロシャ人ガルトネルと用船契約を結び、藩士を庄内に送り届けた。そのとき兵器・弾薬をも売り数万両儲けた。
朝敵である庄内藩への武器売り込みで新政府からいったんは糾問されたが釈放される。そればかりか江戸における生産方御用達を命ぜられた。
そのいっぽう、新政府側の秋田藩に軍需品千人分を横浜の外国商人と契約して供給、大胆な政商として巨利を得る。敵対する双方に武器を売るという節操を欠いた行為にさすがの藤吉も不安を感じ、罪滅ぼしを福澤諭吉らに相談すると学校がよいということになった。
さっそく東京早稲田に土地を買い北門義塾を創設、その辺りは<2011.7.7北門義塾創立者>などで既述しているので省く。また箱館に分校・北門社郷塾を設けるが、そこに宣教師ニコライが通いはじめ、まだ布教が許されていない時だったので困ったという話が伝わる。
1869明治2年、北海道開拓使がおかれ、藤吉は少数の和人とアイヌとが定置漁業を営んでいるだけだった根室に新漁場開設を出願した。翌年、帆船8隻で家屋・漁具など資材と漁夫や住人を送りこみ新漁場開拓に着手した。次々と土地の払い下げを受け、今の花咲港もそれである。だんだん住民がふえると寺院や学校(花咲小学校の前身)も建てた。
更に千島に手をのばし色丹島に漁場を開設、ます・こんぶ・魚かすなど加工製造所を設けた。さらに1880明治13年藤吉は根室前浜の倉庫地埋め立てに着手するも失敗続き、しかし10年後、約2.6ヘクタールの広大な海面の埋め立てに成功“柳田埋立地”である。根室銀行設立し頭取になる。
1900明治33年にはクナシリ島の硫黄鉱山を買って採掘をはじめる。翌年、釧路で牛馬の牧畜に着手、晩年はカムチャッカ沿岸の漁業権を得てはるか北洋にまで進出、やがて産業の発展のためにもと政界に出る。
はじめ道会議員、ついで1904明治37年の第9回総選挙で当選、代議士となり根室と中央政界の政治的関係を強化する。それから5年、藤吉はこの地で73歳の生涯を終える。
ちなみに、柳田藤吉は、『明治の一郎 山東直砥』に登場しており、本編にもう少し詳しい来歴がでている。
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2013.1.15毎日新聞より
サンマ水揚げ 花咲港日本一・根室3年連続>
―――(全さんまによると)花咲港の水揚げ量は7万3531トン 水揚げ金額は前年比約37%減の67億5565万円。宮城県の女川港と気仙沼港がともに1万5千トン代で、前年の2倍以上となり、東日本大震災からの復旧が進んでいることをうかがわせた。
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コメント
初代、藤吉のことを紹介いただきありがとうございます。
投稿: 柳田左人志 | 2022年1月22日 (土) 23時36分