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2013年1月19日 (土)

西郷隆盛銅像の台座を作った建築家・塚本靖

 毎日新聞2013.1.18[重い・・・・引っ越せない]“社民党本部の浅沼稲次郎像”―――本部ビル移転に伴い元社会党委員長の胸像を持っていきたいが余りに重く、移設のため「台座を分離」して運ぶ事を検討中という。1960年演説中に浅沼氏は刺殺され、4年後設置された胸像引越の件である。事件ニュース映像は脳裏に焼き付いているが像は知らなかった。

 この浅沼像とは事情が違うが、銅像と台座で思いだしたことがある。
―――明治期、陸軍省・参謀本部があった三宅坂に寺内正毅の騎馬像があった。しかし平成の今、乙女らが楽しげに語り合う「平和の群像」に様変わりしている。台座は昔のまま立派でいかめしく、乙女の像とはそぐわない。銅像のすげ替えは時代を写す鏡か。そしてもう一つ台座の話。

Photo  写真はお馴染み上野の西郷さん。2013.1.17行ってみたら、工事フェンスに囲まれ成人の日の大雪がまだ解け残っていた。

 <上野公園で銅像除幕式>(東京朝日明治31.12.19)
―――公園入り口には紅白の国旗をひるがえし,式場を銅像の周囲に設け、憲兵、巡査ら警戒せり。建設委員長・樺山資紀伯の報告あり、除幕委員長・川村純義伯(海軍大将)は・・・・・・その銅像、右手に猟犬を曳き、左手をもって腰間佩刀の鯉口を押え、天の一方を睥睨す。これ翁が征韓論敗れて同志と武村に帰耕し、勃々たる覇気を深く蔵め、或いは鋤、鍬を手に、或いは犬を曳き、兎を追いし当時の状、佩刀はこれ翁が秘蔵の刀に模せしもの角鍔無反の薩摩拵えなり。周囲は鉄柵をもって繞らし、像は花崗石の基台上に立てられたり。

 この西郷隆盛銅像台座を作ったのは、明治期建築の第一人者・辰野金吾の弟子・塚本靖(1869明治2年~1937昭和12年)である。墓は多磨霊園。
 塚本靖は作品をあまり残していないが西郷像の台座で知る人も。銅像を見上げても台座はしみじみ見ない。しかし立派で大きい銅像ほど堅固な土台がいるから台座の設計は重要だ。その塚本は師の辰野金吾をよく支え、大学では多くの後進の指導にあたった。人目にたたずとも広く建築家として仕事をし、幅広い智識の持ち主でもある。
 代表作の旧ソウル駅は、日本が朝鮮を支配していた1925大正14年の作品である。赤煉瓦造り駅舎は、このほど復元工事を終えた辰野金吾設計の東京駅に似ている。

 塚本は京都生まれで1893明治26年東京帝国大学工科大学造家学科卒業(造家=建築)・明治美術学校講師・東京帝国大学工科大学助教授・1920大正9年教授のち名誉教授となる。この間、ヨーロッパ留学3年、清国出張2年、日英博覧会のためのイギリス派遣などにより、西洋建築だけでなく,美術・工芸にも造詣が深い。展覧会の審査員なども多く努めた。著述をみると幅広く多彩なのがわかる。

 東京美術学校講演「孔子の像に就いて」(昭和8.4.15帝室博物館発行)孔子その人の実像を想像できるような内容に惹かれた。
 『茶道全集・器物篇――天目茶碗考』(昭和11.10.25創元社)。茶道は知らなくとも名前だけは聞いたことがある天目茶碗。その由来や年代、日本や古代中国に於ける天目茶碗の使用など詳しい。
 『日本の仏教建築概説』(大正13.7.22時事新報社)日本建築史上仏教建築の地位、奈良・平安~江戸時代、現代の仏教建築まで論述。
 『新しい東京と建築の話』(大正13.7.22時事新報社)関東大震災の翌年出版され、塚本靖以下40人余が都市計画や様式、高層建築、娯楽場や劇場建築、公共の建物から社寺建築まで各々の立場から論じている。
 塚本は“新東京の理想”で「旧態を回復する以上に将来の発展を」とはじめて「これを機会に総ての弊を改良し、多少の反対はあっても、敢然として百年の大計を建てなければならない」と結ぶ。
 3.11を経験した今、参考になる記事があるかも知れない。“「安心して住める「地震の間」”(内山壽一)などもある。 

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