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2013年1月26日 (土)

明治・大正・昭和期の細菌学者、志賀潔(宮城県)

 2013年成人の日、東京近辺は大雪に見舞われ、困った人が多かったと思う。わが家も法事があり、近隣から車で来た親戚もスノータイヤじゃないから大変だった。長野県人はもっと災難で笹子トンネル事故に加え中央高速バスが不通で帰宅困難、その夜は新宿のホテルに泊まった。
 それにしても、振り袖姿の新成人こそ雪にまみれ足袋は濡れるし冷たく寒くさぞ大変だっただろう。この冬はいつにもまして寒いように思う。用事がない限り外に出たくないが、たまには友人に会いたいと「映画でも」と誘ったら「インフルエンザが流行っているから」と人混みをパスされた。まあご尤も流行り病には勝てない。今は情報があるから伝染性の病気は早めに用心するが、明治の昔はどうか。
 伝染病と言えば北里柴三郎が有名だが、北里の若い日、ドイツ留学から帰国しても活躍の場がなかった。それを長与専斎緒方洪庵塾以来の知友福澤諭吉に話すと、芝公園内の地所を提供してもらえ伝染病研究所を設立するもとになった。そのあたりは『松本順伝・長与専斎自伝』(東洋文庫)に詳しい。
 ちなみに「松本順伝」(良順・蘭疇、父は佐倉藩医佐藤泰然)は幕末の動乱をゆく順の豪放磊落な性格も相まっておもしろく目が離せない。幕末明治期が好きな人には特にお勧め。
 また、長与専斎の父は大村藩医、子は白樺派の作家・長与善郎である。長与作品の何が好かったのか忘れてしまったが『竹沢先生という人』など読んだ。前ぶれが長すぎた。表題の志賀潔は、北里柴三郎のもとで研究、赤痢菌発見で知られる。

 志賀潔(1870明治3.12.18~1957昭和32.1.25)佐藤氏の出、母の生家志賀家の嗣子。
 少年のころは蝶の採集が好きで科学に関心があった。東大を卒業後すぐに北里柴三郎の伝染病研究所に入り、柴三郎の指導により細菌の研究に励んだ。
1897明治30年、東京で赤痢が大流行する。志賀は苦心してその病原体を探し求め、翌年、患者の便から赤痢菌を発見(志賀赤痢菌)した。患者数を当時の新聞見出しでみると、

―――(明治29.11.3東京日日) 赤痢流行、29年に死亡2万人
―――(30.10.6国民新聞) 30年に東京で患者6千以上
―――(31.1.15東京朝日) 北里の弟子・志賀潔、赤痢菌を発見・・・・・・赤痢患者の排泄物中には、果たして赤痢快復期の血液によりて凝集反応を呈する特異の細菌あるを発見せり
―――(32.10.1国民新聞) 32年に患者8万、死亡1万5千人越える

1901明治34年、ドイツに留学、フランクフルトの実験研究所でエールリヒについて生物科学・免疫学を研究した。結核の化学療法を学び、帰国後、世界で初めて結核治療のワクチンを発見した。
1905明治38年、医学博士。
1914大正3年、伝染病研究所の東大移管にともない、北里柴三郎と志を同じくする人びとと共に同所を辞す。1915大正4年、新設された北里研究所に入り第4部長。
1920大正9年、慶應大学教授。1925大正14年、京城帝国大学の初代医学部長、のち同大総長。
1944昭和19年、文化勲章。勲章をみせてと言ってくる人があると、きまって「自分は天才でも秀才でもない。運がよかったのだ」と語ったという。
 著書:『ある細菌学者の回想』
 参考:『明治日本発掘』第6巻(河出書房新社) 『コンサイス人名事典』(三省堂)

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