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2013年2月23日 (土)

日露戦争秘史中の河原操子(長野県)

 日米首脳会談ニュースの前に、森・元首相がロシアのプーチン大統領と会談「北方領土・日露容認できる案模索」のニュースがあった。この先、日本はどうなるんだろうと不安が募るばかり。
 たまたま河原操子の伝記を読んで、「日露」から日露戦争が思い浮かび、勲章までもらった女子諜報員を取り上げてみようと思った。戦前、知性があって勇敢な美人諜報員は映画や物語にと大人気だったが、誤解も多かったようである。

 河原操子は1875明治8年信州松本藩の藩儒の家に生まれ明治維新後、漢学を教えていた父の薫陶を受けて育った。父の河原忠とシベリア単騎横断の福島安正(のち陸軍大将)は幼なじみ。
 16歳長野県師範学校女子部、21歳東京女子高等師範学校入学。24歳で県立長野高等学校で教鞭をとり翌年、実践女子専門学校長で女子教育界に重きをなしていた下田歌子に出会う。
 操子は歌子に「清国に渡り女子教育につくしたい」と抱負を語った。その後、歌子の推薦をうけた操子は、日本在留の清国人女子の学校、横浜大同学校(犬養毅名誉校長)に赴任することになった。
 当時、日本人は日清戦争に勝って中国を支那とよび劣等視していたから中国人の対日感情はよくなかった。しかし操子は熱心に指導した。それが認められ27歳という若さで単身で上海に渡り、務本(うーべん)女学堂で8歳から30歳まで45名を教えた。

 そのころ日本は日露戦争を前に、各所に秘密機関を設けていたが、なかでも蒙古は敵の後方攪乱、情報の連絡地として最重要地だった。そこで操子が内田康哉中国公使に懇望され、蒙古カラチンに派遣されることになった。操子は上海から北京に赴く。1903明治36年、操子は日本公使館がつけてくれた護衛二人と共に、表向きはカラチン王府に創設される女学校の教師として赴任。
 北京を出発する操子を見送る内田公使夫妻ほか皆「生還を保証できない地に若い娘を入り込ませる哀れさ」に思わず涙をみせた。操子も重大任務について尽忠報国の志をもって為し遂げ、万一の場合には父から贈られた短刀で自刃する覚悟で旅立った。

 護衛の軍人は北京からカラチンまでの地図作成の密命を受けていた。これにより参謀本部は地図を得た。
 轎(かご)に乗るとはいえ、道無き道の荒野を行くのは簡単ではない。「生きながら氷とやならんと思われ、恐ろしくも又辛い」寒さに耐え、蒙古風に吹きさらされ、馬も滑る氷原を往き、万里の長城・熱河のまだ先のカラチンにようよう着いたのは北京を出てから九日目であった。

 蒙古のカラチンではさっそく表面上の仕事、女学堂を創設すると教師として様々工夫をしてカラチン少女の教育に励んだ。軍事上の秘密通員としての役割を果たしながらである。それぞれ潜入中の特別任務班員とのやりとりは、王府内に親露派が多くいたので苦心があった。中国名での秘密の情報交換ほか、操子はカラチン王夫妻にも守られ任務を果たすことができた。
 カラチン王妃は、義和団事変の際、北京籠城中の柴五郎が守備の要の陣地にした邸の主、粛親王の妹で親日派であった。

 はたして1904明治37年、日露両国は宣戦布告。過酷な戦いの末、翌年9月、講和条約調印となり操子の任務は終わる。翌年、帰国すると数ある縁談が待っていた。そして、横浜正金銀行ニューヨーク副支店長・一宮鈴太郎と結婚、アメリカ・ニューヨークで夫はもちろん在米日本人の助けとなった。
 明治の世は、このようなデキル女性でも活躍の機会を与えなかった。家庭に納めてせいぜい内助で終わらせてしまう。現代なら、誰にでもとはいかないまでもチャンスや活躍の場があるのに、惜しい。

 むろん特別任務班は横川省三ほか無名の諜報員まで何人もいる。『日露戦争秘史中の河原操子』(昭和10.1.1福島貞子著・婦女新聞社)には、「烈士の活躍」と題して略伝から、壮行、悲運や処刑場の写真まで載せている。今の情報社会からはとても考えられない、情報を得るのが命がけの時代があった。

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