続・ある早稲田つながり、『文芸首都』保高徳蔵
いきなりですが過去記事2012.12.28「ある早稲田つながり、北門義塾・内ヶ崎作三郎・直木三十五②-2」の直木三十五同級生名訂正します。
穂高徳蔵 → 保高徳蔵(やすたかとくぞう)。
これも何かの縁、保高徳蔵を調べてみるとその道で知られる人物でした。
保高徳蔵(1889明治22.12.7~1971昭和46.6.28)大阪。
早稲田大学英文科卒業。同期に直木ほか西条八十、坪田譲治、鷲尾雨工ら。卒業後、「読売新聞」記者、博文館の編集者のかたわら『早稲田文学』に作品を発表していたが、文壇で認められず永い雌伏時代を経て40歳のとき改造社の懸賞小説に応募、「泥濘」が当選し『改造』に掲載された。
作品は『勝者敗者』『或る死、或る生』など。『編年体・大正文学全集1921』(編者代表内田百閒・ゆまに書房)に「棄てられたお豊」(『早稲田文学』大正10年7月号)が掲載されている。
自然主義的作風の作家として知られたが、プロレタリア文学とモダニズムが主流だった文壇に受け入れられなかった。このような体験が無名作家の育成を思いつかせたようだ。
1932昭和7年季刊雑誌『文芸クオータリイ』刊行。無名だった丹羽文雄、田村泰次郎、深田久彌、上林暁らが作品を発表した。
次いで翌8年、月刊雑誌『文芸首都』創刊。当時は芥川賞・直木賞のほかに新人台頭の機関が無く『文芸首都』は新人の創作研究や発表の場となった。芝木好子、大原富枝、保髙みさ子、北杜夫、なだいなだ、佐藤愛子らが世に出た。
部数は創刊の1933昭和8年1千部、1941昭和16年用紙の統制による企業整備の際は5誌を統合して存続、1944昭和19年1万部に達し、戦争中も不定期ながら刊行を続けた。
この雑誌の維持は保髙徳蔵個人の努力によるところが大きいが、広津和郎・直木三十五・宇野浩二・青野季吉・谷崎精二らの後援もあった。
『「酒」と作家たち』(浦西和彦編・中公文庫)解説中に[文壇酒徒番付](昭和31)の話題があり、保髙の名もあがっている。
―――東の横綱は青野季吉老、西が井伏鱒二。東の大関・尾崎士郎はいいとして、西の保髙徳蔵はちょっと唐突ではないか。(『東京新聞』鷲尾四郎の批評)。
<直木三十五と酒/ 文・保髙徳蔵>
―――直木はぼくのように酒のみではなかった。だから遠い学生時代からの記憶をたぐって見ても、酒に関連したものは極めて少ない。
郷里が大阪という関係も手伝って、私たちはいっぺんに親しくなった。私の下宿に彼は毎晩のようにやって来た。碁をうったり議論したり、夜の街を歩いては、時にはおでんの屋台店で一本の酒に上機嫌になったり、要するに貧乏書生の最低の娯楽に甘んじていた。
―――二度目の夏の休暇が終って上京すると、直木は美しい奥さんを連れて上京していた。
「あんな美人をどこから、どうして連れて来たんだ」
「あれは中学の時の友達の叔母さんだよ。京町堀のお寺の娘なんだが、父が死んで、兄が後を継いでるんだが、頑固者で結婚に反対したから掠奪して来たんだ」
直木は茶飯事を語るように平気な顔で云った。
―――「これはうまい。なんという酒だ」「保髙君、その酒の味がわかるとは話せるぞ。別に秘密もない。大阪の酒だ」
私は初めて、直木三十五が東海道を手荷物に携えて来た灘の生一本の美味が心底からわかった。
私が酒を賞味していると、直木は別に自慢するような様子もなく、ほんのり眼もとを赤く染めてにこにこしていた。物静かな酒だ(『「酒」と作家たち』より)。
参考:『現代日本文学大事典』(明治書院) 『コンサイス人名事典』(三省堂)
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