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2013年2月16日 (土)

伊達邦成(宮城県)の北海道開拓

 幕末。62万石の大藩、仙台藩(15代藩主・伊達慶邦)は幕府側・朝廷側の双方から活躍を期待されたが、両者に距離をおく政治姿勢をとっていた。しかし薩長による倒幕の動きのなかで朝敵とされた会津藩の救済と薩長の横暴を排する方に傾いた。そして仙台藩を盟主として東北諸藩に長岡藩も加わり奥羽越列藩同盟が結成された。が、会津戦争の最中に同盟は崩壊、仙台藩も降服した。
 明治維新後、仙台藩は28万石に減封され、残余はいくつかの藩の取締り地預け地となった。そのうち刈田郡、など旧仙台藩領に伊達郡の一部を加えた地域13万石が白石藩となった。そこに旧盛岡藩20万石をを没収された南部彦太郎が転封となり、白石城を居城とした。
 この処置により生活が困難になった旧家臣らは武士身分の解消により帰農策がとられた。一門の亘理(宮城県南東部)・岩出山伊達家では北海道開拓が推進された。

 3万石の亘理城主・伊達邦成は1869明治2年、蝦夷地開拓の計画を聞き、家老田村顕允とはかり旧藩士8000人を移して開墾の事を請願した。この年、開拓使が設置されえぞ地を北海道と改称、各地を諸藩などに分割支配させることになった。伊達邦成は
「自費にて漸次移住し、実効を挙げよ」と、胆振(いぶり・北海道中南部)有珠郡を支配地と定められ、10月、有珠郡にわたり支配地の授受をおえ着手の地を紋別にさだめた。

 1870明治3年4月、伊達邦成は亘理の大雄寺に旧藩士を集め「北陲をもって墳墓となし、艱難を克服して勤王の実効を挙げる」また、祖先伝来の宝器を一切売り払って資金にすると誓い、同志を求めた。従う者あり、まず移住者220人と人夫30人を率いて紋別に渡った。
 次いで8月に、男女72人が移ったが、武士の身で寒くてもの寂しい北地で慣れぬ鋤鍬を扱うとなれば、困苦は察して余りある。こうして、有珠郡を中心に仙台藩士族が移住開拓にあたった。伊達邦成が北海道開拓につくした功績は大きい。

  山畠を開墾しても水気なく人目も草もかれぬと思へば
  開拓に盡力なさる方々はわが衣手に雪はふりつつ

 ほかに宮城県出身で北海道根室にわたり、漁業指導に従事した佐藤久右衛門(陸奥国仙台城下生まれ)がいる。『北海道「海」の人国記』(伊藤孝博)は、大富豪でも広域漁業家でもないが、一つの地域に根を下ろし、地元開発の祖となった典型として、「和人で初めて羅臼(らうす・北海道北東部)に定住、羅臼開拓の祖とされる漁業家・佐藤久右衛門」をとりあげている。

 また、維新の激変後、旧幕府時代のものを無用の長物視し、維新政府への服従として城郭を壊すようになった。真っ先は但馬国出石(兵庫県)で戊辰9月15日に壊された。会津藩の降服ははこの一週間後、9月22日である。
 1871明治4年、仙台の白石城が取り壊され、その材を片倉邦憲が賜り、北海道開墾の費用に充てた。これなどは有意義な取り壊しであるが、全国の藩城は取り崩される運命にあった。ところが廃藩があったり、熊本など名城は残すべきとか何やかや、今に残る城もある。
 1873明治6年、官令で「要衝にある城池、軍事必要のものは陸軍省に属す、その他は大蔵省に附して廃毀する」として旧城池を整理した。全国の存城42,築城12を指定したが築城はされなかった。
 余談。北海道南西部の松前城の石垣には戊辰戦争の砲弾跡が遺る。

 参考:『宮城県の歴史』山川出版社  『明治事物起源』石井研堂

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<2017.12.11 追記>
 4年前の記事 「伊達邦成の北海道開拓」にアクセスがあったのは、TVでこの関係の放送があったのかもしれない。たまたま、会津藩士で北海道にいった人物の記事を書くため本を読んでいた所、次の記述があったので、参考までに紹介。
  「伊達邦成主従(明治3年~有珠郡伊達町)
  「伊達邦直主従(明治5年~石狩郡当別町)
    参考: 『歴史探訪 北海道移民を知る!』北国諒星2016北海道出版企画センター

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