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2013年2月 9日 (土)

明治・大正期の自由民権運動家、河野広中(福島県三春)

 東日本大震災と原発事故のため遠く離れた会津若松市(福島県西部)に避難している大熊町(福島県東部)。そこに熊町小学校大野小学校がある。熊町小学校ホームペー ジhttp://kumamachisyo.blog.fc2.com/page-1.html を開いて子どもの笑顔があるとホッとする。そこの6年生が主役のNHKテレビ【目撃!日本列島「自分で調べる“放射能”福島 大熊町の子どもたち】を視ていて、健気な姿に感心しつつも胸が痛んだ。しっかりせざるを得ない現実を受け止め向き合う子どもたち、放射能について真剣に学ぶうちどんどん成長する6年生。子どもにとって何が善いのか悩みながら見守るお父さんとお母さん、心情は察してあまりある。

 それにしても、海辺の大熊町と盆地の会津若松では気候風土が異なり慣れるのに時間がかかったでしょう。同じ福島県といっても成り立ち、土地柄は一様ではない。それは幕末の戊辰戦争をふりかえっても同じ、というよりいっそう複雑だ。敵味方入り乱れ、いったんは奥羽列藩同盟に加わるも会津を攻めた藩があり人がいた。是非善悪はおいて、三春藩(福島県東寄り)郷士の子でのち福島事件で名を馳せた河野広中は土佐藩に協力、棚倉(福島県南部)で会津攻略のための軍用地図を作成したという(『河野広中』長井純市)。
                           
 河野広中(1849嘉永2.7.7~1923大正12.12.29)磐城国生まれ。号は磐州。
 幕末、広中は兄弟や有志と尊王攘夷についてよく語り合っていた。当時、西方から会津征討の軍が各道を進発、東北では奥羽列藩同盟が結ばれ三春藩も同盟に加わった。しかし、三春藩は維新政府側に傾いてゆく。尊王論の広中は、会津攻めの響導役(道案内)を白河まで攻め寄せていた土佐の板垣退助に申し出、土佐藩隊外の「断金隊」に同志と参加する。 この出会いが、後藤象二郎ら土佐人ほか幅広い人脈、自由民権や政治運動につながる。

 さて、三春藩は維新政府軍に城を明け渡し会津と奥羽越列藩同盟軍と戦うことになる。広中が属する断金隊も阿武隈川の渡船場で戦闘、広中は飛び交う弾丸の中、船を奪い取り新政府軍の渡河を助ける殊勲をあげた。次いで三春藩は新政府軍と共に二本松城を攻め落とし、広中は断金隊を離れる。三春に戻って藩政改革を進めようとしたのだ。しかし戦闘で功績があったとはいえ、未だその地位ではなく受け入れられなかった。

 明治維新後、広中は兄の勧めで若松県の吏員になるも上司と衝突、会津を離れた。以後、三春藩の捕亡取締(下級役人)、蘆沢村の祠官(神主)、この間に廃藩置県があり三春藩は三春県となり更に平県(磐前県いわさきけん)に編入された。
 1873明治6年(三春駒の産地)磐前県常葉村の副戸長になった25歳の広中は、『自由之理』(ジョン・ミル/中村正直訳)を三春で手に入れた。さっそく常葉に戻る馬上で読み、自由や権利について共鳴した。自由民権思想に目覚めたのだ。
 以来、福島に政治結社・石陽社、民権結社・三師社を結成して東北民権運動の指導者となる。また上京して愛国社・国会期成同盟の幹部として請願運動にも活躍した。
 1881明治14年自由党結成のさいには大きな役割を果たした。活躍の様子が『河野広中』でよくわかり興味深かった。この年、県議会議長になる。
 1882明治15年、三島通庸県令の会津三方道路開設のための夫役を強制するなどの県政に反対、福島事件がひきおこされると指導者として内乱予備罪に問われた。禁錮7年の刑で宮城県監獄に収監され、獄中で英語の勉強に余念がないなどの消息が新聞の載っている。
 1889明治22年憲法発布の大赦で出獄。
 1890明治23年第1回衆議院選挙に出て当選、以来14回連続当選。
 1903明治36年衆議院議長、日露戦争後に講和反対運動をおこし、日比谷焼き討ち事件で罪に問われ投獄されたが証拠不十分で釈放。
 1914大正3年大隈内閣で農商務大臣。生涯を民衆政治家として政党内閣と普通選挙実現のためにつくし74歳で没した。
 伝記『河野磐州伝』上下。福島県田村郡三春町に歴史民俗資料館自由民権記念館と銅像。

  参考: 『河野広中』(長井純市著・吉川弘文館)  『コンサイス人名事典』(三省堂) ほか。

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