明治のジャーナリスト・事業家、岸田吟香
岸田吟香 (1833天保4~1905明治38) 岡山県。岸田劉生の父。本名銀次。諱は国華。
幕末1867慶応3年5月:高知藩、長崎を本拠とする坂本龍馬の社中を海援隊と称し、同藩の付属とす。同5月:アメリカの宣教師でヘボン式ローマ字創案者Hepburn,James curtis(平文)が 《和英語林集成》 を上海で印刷した。その和英辞書の編纂を助けヘボンと共に上海に渡航したのが岸田吟香である。
日本も昔から書籍出版はあり何で上海?と思ったら、当時は洋式活版印刷で大部の時は日本人の著作でも設備の整った上海のキリスト教宣教会印刷所で印刷したそう(『横書き登場』屋名池誠)。
岸田は上海に2年いて日本で最初の和英辞書《和英語林集成》を仕上げて帰朝した。
また岸田吟香といえば「精錡水」目薬が有名、どこでか忘れたが展示されてたのを見たことがある。目薬の縁か判らないが、中村正直(敬宇/『西国立志編』)・津田仙(津田梅子の父)らと楽善会を組織、1876明治9年東京教育大付属盲学校・聾学校の前身である訓盲院を創設、社会事業にも努力した。
行動力があり事業家としても活躍の岸田を、陸軍軍人・荒尾精は言う。躯幹長大、美髭、風采立派な偉丈夫で弁舌も爽やか、押しも押されもせぬ大立者と(『東亜先覚志士記伝』「岸田吟香と楽善堂」・黒龍会/明治百年史叢書)。
岸田は年少で津山藩儒・昌谷精渓について漢学を修め、17歳で江戸に出て林図書頭、ついで大阪の藤澤東畝に学び、当時、藤田東湖・大橋訥庵ら幕末の志士とも交わったが病でいったん帰郷、再び上京すると藤森天山(弘庵)に入門した。
師の天山はペリー来航のとき幕府に上書して建言、安政の大獄に連座し江戸追放となった。そのとき、岸田は天山の上書を書いた嫌疑を受け上州地方に逃れた。時期をみて江戸に戻ると素性を隠して深川の妓楼に住み込んだ。周囲から「銀公、銀公」と呼ばれ、自ら「吟香」と称した。
やがて幕府の追求が緩むと横浜に赴き、同じ岡山出身の洋学者・箕作秋坪にヘボンを紹介された。岸田はヘボンの家に住み込み和英辞書の編纂助手となる。その傍ら、ジョセフ彦(浜田彦蔵)に英語を学んだ。
こうして外交の事情にも通じ外国の新聞にも興味をもった岸田は、これもジョセフ彦に英語修得中の本間潜蔵と相談、『新聞紙』という新聞を1864元治1年発行。この日本初ともいえる新聞を定期的に発行していたが、和英辞書の原稿が完成したのでヘボンと共に上海に赴いた。
上海から帰国した岸田は廻船会社を創設、江戸・横浜間の運送業に従事、また1868明治1年「横浜新報-もしほ草」発刊、さらに氷室商会を興し氷販売にも成功した。
1872明治5年「東京日日新聞」記者になる。1874明治7年の台湾出兵時には日本初の従軍記者として活躍、岸田の戦地通信は人気で購読者がふえた。
1877明治10年、日日新聞を退社、銀座に楽善堂を開業、精錡水を発売した。広告もあってか非常な売れ行きで、翌年には上海に支店をだし精錡水の他に守田の宝丹、雑貨も売った。以来、上海・東京を往復、その間、漢籍に詳しく書道にも長じていた岸田は清国の学者と交遊、書籍も販売した。
清国には科挙があり受験生は試験場に参考書を持ち込めたが、書籍は木版印刷だったからかさばって自ずと限度があった。それが楽善堂のは銅板印刷で小型だったから多種類を試験場に持ち込むことができた。そのため楽善堂の書籍は各地で熱狂的な歓迎を受け、岸田は財力を積み上海の社交界で華々しく活動した。
上海の岸田の家には多くの食客が寄寓、そこへ参謀本部から派遣された荒尾・陸軍中尉が乗り込み協力を求めた。岸田は快諾、荒尾は漢口に楽善堂を設け商人になりすまし岸田から送られてくる品々を商い、日清戦争直前の清国各地を調査した。
以後、岸田は日中貿易の発展、友好関係の増進につとめ、興亜会、亜細亜協会、東亜同文会、日清貿易研究所の創設発展に尽力した。
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