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2013年3月 9日 (土)

明治の光と影、兵士・輜重輸卒

   <その一>

 270円。明治の徴兵制度が始まったころ、270円を納めれば戦争に行かなくても済んだそうです。270円が明治の初めにかなりの大金であったと察しがつきます。でもどうして270円?これは兵士一人を養成する金額だそうです。
 当時は小学校も授業料が必要。元武士の子であっても金がなく学問を続けることができない。そこで、無料の軍人養成の学校へ入って軍人となったのが司馬遼太郎『坂の上の雲』の秋山兄弟。

 歴史をたどるとき、政治家、軍人、文学者などの活躍に目がいってしまいます。建築物も明治期なら銀座の煉瓦街、ガス燈や、ダンスパーティーに明け暮れた鹿鳴館とか目立つものに気をとられがちです。ところが、表通りから露地裏に入れば「東京はこんなにきたなき所かとおもえり」と正岡子規が書いたような有様だったようです。
 人間にしても光の当たる表通りで活躍できる者は限られており、貧民窟スラムで命をけずっていた者は1万とも2万ともいわれます。
 明治期「日日新聞」や「風俗画報」に掲載の貧民窟図をみると、浅ましく目をそむけたくなります。その惨状にしばらく手をつけなかった国には国の事情があったでしょう。
上から下まで全部、光と影も合わせて歴史」ある講座で教わりました(1998.3.17記)。

   <その二>

 日清・日露といえば何が思い浮かぶ。勝利に名を残すのは将官、しかし戦うのは徴兵された兵士、幾つもの戦闘をふりかえるとき戦死者の多さに驚く。今さらながら本当に兵士は命がけである。
 ところで命がけなのは戦闘員である兵士ばかりではない。戦闘をするには武器弾薬そして食料が無くてはならない。それら軍需品を輸送するのは輜重兵(しちょうへい)である。しかし、階級が低いため
「輜重輸卒が人間ならば電信柱に花が咲く」などと侮られた。
 たとえば日露戦争第二軍の輜重輸卒・西村真次の隊は沙河会戦さなか、大荒地から黄家嶺子という所まで輸送を命じられた。その状況はといえば、

「雨が降りしきって道は沼田、見渡す限りの泥の海!その中を車を引っ張って、毎日毎日六里の間を往復したが、道はどろどろになって深さが二尺も三尺もあるという風だから、とても車を引くわけには行かぬ。やむをえず車を捨てて、米なら米、麦なら麦を、一叺(かま)ずつ、箱に入った物なら一箱ずつ、背中に担いで雨の降る中を列を作って進む。泥の深い処は腰のあたりまで水につかり、蝸牛のようにぼつぼつ進むのを慣わしとした。
 ところが満州の土は粘土質で急いで歩けば滑る。風が強いと滑ったあげく、ぴしゃりぴしゃりと異様な音を立てて倒れる。米も服も何もかも泥にまみれてしまう。
 貨車輸送の時もあるが、貨車に乗って監視をするのとは大違い。武器、糧食その他を積んだ貨車を押してゆくのだ。戦地での苦労は戦闘員も輸卒も変わりはない。まして雪がふれば、言わずもがなである」。
(『血汗』西村真次・精華書院・明治40年3月)

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