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2013年3月16日 (土)

石川啄木(岩手県)とその時代

 かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川 (一握の砂)
  京橋の滝山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな (同)
 新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど (悲しき玩具)
 解けがたき 不和のあひだに身を処して ひとりかなしく 今日も怒れり (同)

 東日本大震災、地震・津波・原発事故から丸2年、あのとき生まれた赤ちゃんはもう歩いている。三度目の春が来ても被災地の復興はまだまだ。東北が近くなったのは交通だけなのか。
 1890明治23年に東北本線が盛岡まで開通した当時、上野-盛岡間は17時間55分もかかった。今は東北新幹線が走り抜け日帰りもできる。
 啄木少年は1902明治35年秋、文学を志して上京したものの翌年2月病のため帰郷。18時間近い汽車旅はさぞ心身に堪えただろう。

 石川啄木(1886明治29-1912明治44年)本名一(はじめ)。
 南岩手郡玉山村(現・盛岡市玉山区)常光寺住職の長男として生まれ、翌年、父・一禎が渋民村宝徳寺住職になりここで成長した。
 13歳で県立盛岡中学に入学すると上級生の文学活動に刺激された。「新詩社」の社友となって『明星』を愛読、与謝野晶子『みだれ髪』の影響をうけた。
 石川一は中学校を退学して上京するも病のため帰郷、その後、与謝野鉄幹の知遇をえて「新詩社」の同人となり、啄木と号して詩作に専念した。
 1905明治38年、明星派詩人として処女詩集『あこがれ』を刊行、才気縦横の少年詩人と評された。しかし、父が住職をやめさせられ啄木に一家扶養の責任が負いかぶさった。

 啄木は愛人堀合節子と結婚、盛岡市内に新居をかまえたが生活難のため渋民村に帰る。母校の代用教員となった啄木は、教育に精進しながら『雲は天才である』などの小説を執筆する。
 1907明治40年、啄木は新天地を求めて北海道にわたり、箱館、小樽、釧路と1年にわたる漂泊生活ののち上京、創作生活に入った。しかし自然主義風の小説は少しも売れず、生活は窮乏した。そのうち創作意欲は短歌に表れ、生活の現実に根ざした作品は歌壇に新風をふきこんだ。

 1909明治42年啄木は東京朝日新聞に校正係の職を得、翌年、朝日歌壇の選者となる。また、処女歌集『一握の砂』をだし、第一線歌人としての地位を確立した。
 その一方社会に強い関心を持っていた。当時、第二次桂内閣のときで
「憲政本党・大石正巳ら改革派は万年野党から抜け出そうと桂太郎に接近。これに犬養毅ら非改革派が対抗したので大石らは合同を拒む犬養の排除を決めた」
この騒動を外から見ていた啄木は『岩手日報』に次のように送稿

―――この紛争なるものは、大局の推移を見るの明なき同党の少壮連が、政界縦断、新党急成の熱に犯されて、大同派その他と握手するを肯ぜざる犬養氏を血祭に上げ、常議員会の多数を頼んで除名宣告を敢てしたるより起りたるものにて、要するに無用の争いを醸したる罪は彼等少壮者になしとせず。さればこそ除名されたる犬養氏が、それにて政治的勢力を失墜するかと思いの外、却つて天下の同情を集め得たりし訳に御座侯。
 ちなみに、除名された犬養は民党主義を主張しジャーナリズムの支持、世間の人気を得た。

1910明治43年大逆事件。この幸徳秋水の事件に衝撃をうけた啄木は社会主義思想に接近、事件の真相を知って国家権力への抵抗を感じる。次の時代への新思想の啓蒙に乗り出そうとするが肺結核のため、東京市小石川久方町の借家でわずか27歳で薄幸の生涯を閉じた。
 戦後、『石川啄木日記』全3巻が刊行され啄木の思想や作品を知る手がかり、また明治文壇の側面史としても貴重な資料となっている。

 参考:『世界大百科事典』平凡社・『現代日本文学大事典』明治書院ほか。

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