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2013年3月 2日 (土)

日清戦争従軍記者・横川省三(岩手県)

 《横川省三氏の銅像けふぞ除幕の式を》 昭和6.4.21東京朝日新聞岩手版
―――盛岡市高松池畔神庭山で盛大な除幕式を挙行する。この日は、横川氏が明治37年日露戦争の折から特別任務を帯びて満州の奥深く潜入し、不幸、露軍の捕らへるところとなって、ハルビンの野に消えた無念の日から二十六周年。(『怪傑伝』伊藤仁太郎・昭和10)

 前記、河原操子は無事帰還した。しかし敵の背後をつき兵站線を攪乱、鉄橋爆破の任務を帯び潜行した横川ら12士は茫々千里の危険地域に進み発見され、銃弾に倒れ処刑された。生きて帰れなかった殉国の志士たち。中でも横川省三は幾人もが伝記を著し銅像も建った。郷土の誇りとして「修身科補充教材」にもなった(『和賀郡誌』岩手県教育会和賀郡部会・大正8)。 毀誉褒貶は本人のあずかり知らない所だが、戦前もてはやされた人物の戦後は如何に?銅像は破壊されてないか、はたまた2011東日本大震災にも負けず今もその地に在る?

 「最後の同盟通信戦場カメラマン死去」(毎日新聞)の記事を目にした。1942年シンガポールで山下奉文――アーサー・パーシバル両司令官の歴史的会見を撮影という内容で、99歳で亡くなられたカメラマンは従軍取材経験をもつ最後の一人だという。
 従軍取材という言葉で、2012.7.04<明治の志士・日露戦争の軍事探偵>横川省三が記者だったのを思いだした。従軍通信員のエピソード、近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/ で読める。

 小笠原長生『日露軍事断片』“横川省三君に就て”5月5日海軍省新聞記者集会室にて(春陽堂1905)より

―――日清戦争のとき、アノ人は朝日新聞の従軍通信員として初め「吉野」に乗っていましたが、威海衛攻撃のとき「高千穂」に乗っていたのです・・・・・・戦いが始まるとマストのトップに乗って仔細に戦況を視察していました。それですから降りてくると煙のために顔は真っ黒になって目ばかりパチパチさせていましたから、皆が横川はまた黒坊になってきたと言いました

―――横川は艦長の紹介で水雷艇に乗ることになりましたが、「定遠」(中国軍艦)などを沈めに行くときだったので水雷艇の艇長から拒まれました。それで攻撃が終わってから乗せてもらい、「ボートに乗って千島探検に行ったときヒドイと思ったが、とてもソンナものではない。水雷艇には実に驚きました」と語っておりました。

―――それから(海軍と)澎湖島より台湾にまで往き、のちに拱北の砲台を(日本が)奪ったときは、「高千穂」を降りて陸軍に従い、二、三日ずつ上陸していました。いつも危険を冒して真っ先にかけだし、一度敵に逐われて一目散に逃げ帰ったが、その内で地図を書いてきているのです。ここは自分の落ちた所だなどと語っているのです。その図は今も朝日新聞社に残っているでしょう。実に横川君は軍事に於ける通信員の模範です。・・・・・・いつでも危険を冒して戦闘の真っ先に立ち仔細に観察して綿密なる通報をしようと勉めていたのです。

―――当時「高千穂」艦長・野村大佐は豪傑風の人で、横川君を気に入り「達磨(横川のあだ名)を呼べ」といっては艦長室に招いていたのです。そこで英雄論が始まると、横川君は艦長にでも一歩も譲らないのでした。
―――横川君はある時、筆を以て世に立つ程つまらない事はないと語っていましたが、それより筆を執って世に立つことをやめたのでしょう。 

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