剛毅清廉の実業家、富田鉄之助(宮城県仙台)
卒業シーズン。大学生から幼稚園児まで今居る場所にさようなら、新しい陣地に向かう。社会人になる卒業生は希望と不安がない交ぜでも卒園児はピカピカの1年生になるからうきうき。
幼稚園も明治の頃は限られていたから学齢に達しない子を入学させる親もいたのである。
1884明治17年、文部省は幼稚園の設立を勧奨、学齢未満の幼児の小学校入学を禁じた。この年、芝麻布共立幼稚園設置願が提出された。富田鉄之助・子安峻・山東直砥(一郎)、3人の出願者はいずれも大物で(小林恵子【日本における最初の私立幼稚園とその背景】お茶の水女子大学)、その一人山東は拙著『明治の一郎・山東直砥』があるので、富田鉄之助を見てみる。
富田鉄之助 (1835天保6~1916大正5年)。
父は仙台藩士。明治・大正期の実業家。
鉄之助は安政元年1854江戸の下曽根金三郎に西洋砲術を学んで帰郷、1863文久3年再び江戸に出て勝海舟の門下生になる。
1866慶應2年、勝の援助で勝の子息・子鹿とアメリカ留学、3年後に戊辰戦争がおこった。仙台藩も戦になり藩主と共に鉄之助の父や兄も出陣。これを知った鉄之助は矢も立てもたまらず急ぎ帰国、師の勝海舟を訪ねると「汝、何が故に帰る」と叱られた。
鉄之助は「兵戦を以てし、之を大にしては主君の存亡、小にしては父兄の安危に罹る。何ぞ之を看過し去るを得んや」。
勝曰く「汝、眼孔の小なる。そもそも維新の戦乱因って来る所あり。汝が父兄愚魯(ぐろ・おろか)にして事に通ぜずんば、或いは身を兵馬の間に斃(たお)すなきを保せず。主君の安危に至りては介意を要せざる事瞭然火を見るが如し。汝、修学多年未だ此般の小事を看破する能わざるか。今より直に米国に戻り静かに学を修めよ。然らずんば余復び汝をみるなけん」(『海舟言行録』1907)
1868明治元年、鉄之助はしぶしぶ再びアメリカに戻り学業を続ける。
このとき、後に越前の藩主にまねかれ福井で自然科学を教えるグリフィスが、鉄之助や岩倉具視の息子たち日本人留学生の様子、育ちの良さ、礼儀正しさ、頭の鋭さがアメリカの学生にひけをとらないと感心したと、『明治日本体験記』(東洋文庫)のなかでほめている。
1869明治2年、官費留学生になり(官費留学生の初めとも)理財学を学んでいたが1872明治5年、岩倉使節団がアメリカにやって来た。そのとき、鉄之助はニューヨーク在勤領事心得、さらに副領事に選任されその職に努めた。
1876明治9年、帰国。次は清国上海総領事、さらに外務大臣書記官としてロンドン公使館勤務、1879明治12年には臨時代理公使になる。
1881明治14年、イギリスから帰国。大蔵権大書記官となり横浜正金銀行管理係になった。
1882明治15年、日本銀行創立委員となり副総裁となる。
1884明治17年、東京商業学校(一橋大学の前身)校務商議委員。幼稚園設立願はこの年。
1886明治19年、私立東華学校の前身宮城英学校を設立。
1888明治21年、第二代日本銀行総裁となったが2年後、松方大蔵大臣の積極財政に反対し退任した。退任後、貴族院議員に勅撰される。
1891明治24年、東京府知事に任ぜられる。在任中、東京の水道問題解決のため三多摩地方を神奈川県から東京府に編入(『忘れられた元日銀総裁-富田鐵之助伝』吉野俊彦)。
『地方長官人物評』(大岡力)は、東京府知事・富田鉄之助を「剛毅清廉」極めて確かなる人物なりと評し、続けて
―――生活は質素で常に紺足袋をはき勝邸へ出入りは玄関でなく勝手口からであった。豪傑的風貌あってしかも精刻細心なり。世間を風動するの度量手腕なしと雖も、毅然自ら守るに至ては、当世希有と称せざるを得ず。東京府知事としての氏の適否如何、
東京府は他府県と甚だ趣を異にす。皇城のある所、日本の首都、府政の大部分を占める警察事務(独立の警視庁がこれを管理)、警視総監の権力強くややもすれば府知事を凌ぎて威を振るうあり。
今富田氏は果たして・・・・・・
藩閥の援護なしで、真面目至誠の結晶たる古武士と評される鉄之助に官界、政界は合わないようでまもなく府知事を辞め、以後、実業界に転じた。
1896明治29年、森村市左衛門らと富士紡績株式会社を創立、初代取締役会長。
1897明治30年、横浜火災保険株式会社を創立、社長になり晩年まで経営にあたった。
上流社会や実業界に顔を出すようになれば華やかにするのが常だけれど、富田家の応接室は古屏風一式と勝海舟自筆の扁額あるのみという質素なもので、わが子にも奢侈を禁じた。
こうしてみると冒頭の「幼稚園創立の出願」は単なるつきあいでなく真剣であったと察せられる。
著書に『銀行小言』(上・下巻1885)、『海舟年譜』(編著1905)などがある。
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