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2013年4月13日 (土)

明治初期、郡山小学校教師・御代田豊(宮城県・福島県)

 NHK大河ドラマ【八重の桜】いよいよ時勢は転変、会津藩が追い詰められている。戊辰戦争へのゆくたてが展開しているが、筆者は主人公の活躍もさることながらチラチr映る周辺の人物が明治期にも登場するかが気になる。たとえば、ラフカディオ・ハーンに「神のような人と讃えられた秋月悌次郎(拙ブログ2012.6.13)」、山川浩・健次郎兄弟とその姉妹などなど。
 ところで戊辰戦争に敗れ「白河以北一山百文」といわれた東北、ことに福島県は三島県令が大規模な土木工事を計画、県民を夫役に狩りたて弾圧したから自由民権運動が拡がった。
 しかし、郡山は県や政府と密着した開拓事業を行い、人や金の面からも政府への依存度が濃かった。郡山盆地の安積疎水開鑿事業は内務卿・大久保利通の建言により士族授産・開墾を目的として着手、工費は40万円とも。県中央部に位置する郡山は交通の要地であり商工業都市として発展、自由民権運動に関しては空白地帯であった。

 1876明治9年、郡山(金透)小学校は第一次東北巡幸の明治天皇をお迎えする。立派に建てられた学校を木戸孝允は「金透」と命名、御代田の斡旋によるという。ここには賊軍とか賊地といったイメージはまったくない。自由民権運動もみられない。同じ福島県といってもその風土は、郡山と会津は異なる。
 『明治事物起源』石井研堂(拙ブログ2013.1.5)は郡山の出身で、古い物はもちろん新しい事物にも好奇心いっぱい。それは郡山という土地柄か、それとも郡山小学校の恩師・御代田(みよだ)先生の影響が大きいのか。
 御代田について調べたが、木戸考允は東北巡幸の翌年死去してい、御代田は中央に縁がなかったのか資料が見当たらず『石井研堂――庶民派エンサイクロぺディストの小伝』(山下恒夫・著/リブロポート)から殆どを引用させてもらった。

 

    御代田豊
      1851嘉永5年~1905明治38年。宮城県名取郡に生。父は仙台藩士。

 前出「石井研堂~~」によれば、御代田は6尺豊かな眉目秀麗な青年で、武士的な気骨あり士魂の持ち主という。士魂は師魂に通じ1875明治8年、郡山小学校に赴任すると、まだ寺子屋風であった学校の改革を図った。御代田は校長として授業方法はもとより校舎の改築もすすめ生徒は一時、陣屋跡の校舎に移った。

  ―――(研堂)この陣屋の学校に夜学があって僕らは毎晩御代田先生の授業を受けた。学校ができても夜学をやめなかったので、毎日8時間以上御代田先生の授業を受けた。
  ―――金透黌(郡山小学校)は当時一千戸弱の郡山町の学校としては立派すぎる学校であった・・・・・・御代田先生の功績の一つとしてもよかろう。年僅かに26歳で学校の設計や建設や経営をしたのならば、先生は確かにえらい人であった。先生は多少フランス語の本をも読み、漢学は岡鹿門(千仞)先生の門に、仙台で1873明治6年新聞に関係して・・・・・・新しい頭脳の方であって、此の一学校に長たる如きは、鶏を割く牛刀であったかもしれない。
 御代田は自分で教えただけでなく、福島師範に生徒を赴かせ、近代的理科教育を受けさせた。それは研堂はもちろん、少年生徒らに大いに役だったのである。

 1882明治15年、研堂は15歳で退学、まもなく御代田も退職したが宮城に帰らなかった。 
   研堂は御代田の仕事、郡山の市区改正計画で測量や図引きなど手伝う。そのうち御代田が校長に復帰、研堂は代用教員になったが二人の学校勤務期間は短い。
   研堂は上京し、御代田は1886明治19年県会議員に当選、郡山の県庁誘致運動に尽力する。やがて、事情は判らないが御代田は妻子を連れ帰郷、宮城県・松島の観瀾亭の管理人になった。
 1905明治38年、東北地方は大凶作にみまわれ、御代田も不遇をかこっていたその年末、病没。行年55歳であった。

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