日就社・読売新聞創業のジャーナリスト、子安峻(岐阜県)
前回は「芝麻布共立幼稚園設置」出願者が山東直砥・富田鉄之助・子安峻の3人と知り、東北出身の富田をとりあげた。大震災、原発事故が起き、せめて被災地に目を向けようとなるべく東北なのだけど“けやきワールド”、自分の為になってる。人物発見があったり、そこから明治人繋がりにと興味が尽きない。
その3人の関係、とくに山東との縁を知りたくて、子安峻(こやすたかし)を調べてみた。すると、何で知らなかったのだろうという経歴、業績の持ち主だった。
山東と富田はある時横浜に居て子安も横浜で活躍をしたからおそらく横浜つながりか。また、山東は神奈川県役人、子安は外務省役人として *マリア・ルース号事件に尽力している。
* マリア・ルース号事件: 1872明治5年、ペルー船マリア・ルース号が修理のため横浜に入港した。その際、船底に監禁されていた清の苦力(クーリー)が逃亡し英国艦に救助を求めた。日本側は奴隷売買事件として裁判、苦力全員の釈放、本国送還を決定。これに不服のペルー国はロシア皇帝に仲裁裁判を依頼したが日本の主張が認められた。
子安峻 1836天保7~1898明治31年。岐阜県。美濃大垣藩士・子安宗重の長男。幼名鉄五郎。号は悟風。
子安峻は14歳で藩校・敬教堂の句読教授。のち江戸の下曽根金三郎の門に入り砲術、佐久間象山の元では蘭書(オランダ語)と舎密術(科学)を学んだ。藩に帰り子弟に教授するも又江戸に出て長州藩士・村田蔵六について蘭書と兵学を修める。
1862文久2年、幕府の洋書調所教授手伝い。次いで横浜運上所の輸入検閲官・翻訳係となり明治維新後、神奈川裁判所翻訳官をへて1869明治2年外務省翻訳官。
マリアルース号事件で副島外務卿のもとで外務少丞として清国苦力の開放に奔走しロシア皇帝から神聖アンナ第三等勲章を贈られた。
1870明治3年4月、子安は横浜に活版印刷所「日就社」を創立、横浜在住の外人を雇い入れ技術の導入を図った。木版の時代で鉛活字もなく印刷事業は困難であったが、日就社は同年12月、わが国最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を発行した。井関神奈川県令の援助を受けて、日本字の鉛活字を発明した長崎の本木昌造の弟子・陽基二と子安峻が創刊したのである。 当時、英和辞書と言えば岸田吟香が手伝ったJ・C・ヘボン『和英語林集成』などあったが数が少なく、語数も多く体系的な辞書が待たれていた。
子安は日就社事業として柴田昌吉と外務省の同僚らの助けも得て、公務の余暇に英語辞書の対訳にかかり『英和辞彙』(写真)を日就社から刊行。初版5千部を売り尽くした。増補改訂の第2版を明治15年、普及版を明治20年刊行、鹿鳴館時代の英語人気もあって売れた。日就社はまもなく東京に移転する。
1874明治7年「読売新聞」創刊。子安峻・本野盛享・柴田昌吉3人は、一部知識層のものであった新聞を一般大衆を対象として傍訓(ふりがな)新聞を創刊したのである。
『読売新聞百年史』に子安峻以下日就社編集陣の写真(明治9年)がある。
1877明治10年、子安峻は退官、士族籍も返上して読売新聞社長に就任。かたわら扶桑貿易商会、貯蓄銀行、三田農具製作所、炭鉱事業などを経営、芝に紅葉館をつくり実業界にも重きをなした。
1882明治15年日本銀行開設と同時に監事に推される。ここで日銀副総裁の富田とつながる。1889明治22年,日銀監事をひき、読売新聞社長も辞す。
1893明治26年「勇新聞」を創刊したが125号で廃刊。この1898明治31年1月15日、62歳で死去。
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