山口千代作(福島)、金森通倫(熊本)、新島八重(福島)
歴史の楽しみ。歴史上の人物を一人でも好きなると発見があり興味が広がる。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を執筆中、山口千代作という人物が気になった。
明治日本初めての衆議院議員選挙(1890明治23年)に、「福島四区」から東海散士柴四朗、山川浩も出馬したがあえなく落選。
候補者8人のうち東海散士は『佳人之奇遇』人気で有名、山川浩(大山捨松・山川健次郎の兄)は会津藩家老の家柄という名門、しかし1人区を制したのは山口千代作であった。千代作が何者か判らなかったが、『東北自由党員列伝』(自由閣1883)「山口千代作君伝」によって福島事件にも関わる自由党員と知った。
自由民権運動がまだ名残をとどめていた時代、人は国会が開設すれば藩閥政権は打倒され税も軽くなると思い込んでいた。自由党は優勢だったのである。
ちなみに第一回の総選挙は取締る政府に経験がなく、選挙人もその知識が浅かったので真剣かつ公正に行われた。
ところが第二回総選挙で政府は激しい選挙干渉を行った。この選挙、山川浩は貴族院にまわり、無所属の柴四朗と離党した山口千代作の二人が当選した。三区は河野広中が当選。選挙運動中に板垣退助が来て歓呼で迎えられたが、演説会は解散させられた。
山口千代作
1848嘉永元年2月~1906明治39年2月。
福島県河沼郡尾野本村(森野村)名主の家に生まれる(『明治新立志編』は尾野本村/ 『北海道史人名辞彙』は森野村)。
父親が早く亡くなり13歳で名主を継ぐ。県会が開かれると議員になり、県会議長のとき福島事件がおこり東京に奔ったが京橋で逮捕、処罰された。
1890明治23年、衆議院議員。1897明治30年、若松と地元の森野村に機業所を開く。のち「福島県絹織物組合長」に推され就任するも事業は振るわなかった。
1902明治35年、北海道江差機業会社に招かれ江差へ行く。翌年、北海道庁嘱託となり蚕糸事業を担当。そのころ金森通倫の勤倹貯蓄に賛同、推進して一時は注目を集めたが嘱託を辞めさせられる。
翌年、札幌郡篠路郵便局長。
1905明治38年、同志と北洋貿易商会を組織してカラフトに渡ったが、翌39年2月12日、病気で死去。
金森通倫(かなもりつうりん)
1857安政4年~1945昭和20年。熊本県。
1872明治5年熊本洋学校に入り*熊本バンドに参加、迫害され、京都の新島襄を訪ねる。同志社で3年間学び岡山教会牧師になる。のち同志社に招かれ社長代理となるが翌年辞任、東京番町教会牧師となる。
* 熊本バンド: 1876明治9年熊本の花岡山で盟約したプロテスタント集団。熊本洋学校で米人ジェームスに学ぶ生徒たちで浮田和民・海老名弾正・徳富猪一郎(蘇峰)・金森通倫ら35人。
1892明治25年自由党に入党、翌年脱党、以後信仰を離れる。
1902明治35年『貯金のすすめ』翌年『勤倹貯蓄実験談』を著す。千代作との縁はこの当時か。他に『金持ちになれる道』(安田善次郎翁・金森勤倹堂)などの著作もある。
明治末年、信仰に回帰し、1914大正3年、救世軍入隊。1927昭和2年、ホーリネス教会にうつる。ホーリネス教会から著作『天国貯金のすすめ』『基督教三綱領』など出版。
『同志社倶楽部講演集』No.2(1929)に、金森通倫の講演記録「私の観た新島襄先生」がある。次はその一節、新島八重について
―――新島先生に初めてお会いしたのは明治9年7月・・・・・・寺町の借家にいらしたので訪ねて行ったのです。その途中御所の中を通るとき一人の妙な御婦人に会った。妙なといっては可笑しいようですが、その頃では実に妙でした。頭には麦わら帽子をかぶり、足には靴をはき、胴だけが日本婦人で、どうもその頃の京都では一寸見られない御婦人でした。ははあ、これが新島先生の奥さんだなと。果たして然り。寺町のお宅で、まずその御婦人にお目にかかった・・・・・・
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