靴のはじめ、桜組&紀州の靴製造
皇太子ご夫妻オランダ訪問のニュースに、風車やチューリップ、かわいい民族衣装と木靴が思い浮かんだ。木靴、木の履物とはいえ下駄とは大違い。同じ素材でも文化風土でまったく異なる。しかし現代は何処でもほとんど靴だ。ここに到る迄、たとえば明治初期の履物は、
―――木履(ぽっくり)、下駄、雪駄(せった)、草履、麻裡(麻裏草履か)、草鞋(わらじ)、沓(くつ)、西洋沓、わら沓と9種類〔1871明治4・新聞雑誌〕
時代小説愛好者なら判りそうだがイメージできないのもある。靴を沓とは、公卿の用いた「沓」からだろう。当時、靴は高価な輸入品で軍靴も同様だが、こんな話が、
―――維新前、徳川幕府は兵士の調練用に外国へ多数の靴を注文したが、戦乱中に荷物が到着して新政府に引き継がれた。ところが荷物は横浜の倉庫に積まれたまま。商人(伊勢勝)西村勝三がそれを知り1足1円で払下げを受け、軍の大村益次郎(村田蔵六)に1円半宛で転売、数万円儲けた。そのうえ、靴は外人の足型で作られたものだから日本人兵士の足に合わず、廃物になった。
桜組製靴会社
前出の西村勝三は軍靴製造が急務と考え1870明治3年東京築地入舟町に製靴工場を設けた。せっかくの日本初の洋式製靴業だったが製靴技術がなく上手くいかなかった。やがて横浜のオランダ人レマルシャンを雇い、軌道にのせることができた。以後、製靴技術は大いに進歩し伝習生を募集するまでになった。ところが材料の革は輸入頼り、そこで製革工場(桜組製皮所)を設け、次に工場全部を向島に移転した。さらに1903明治36年に千住に移転した。ちなみに、西村が下総佐倉の出身なので桜組製作所という。紀州の靴製造
西村が靴製造をはじめた同じ年、紀州藩は外務省の許可を得て外国人教師86名を雇い各教科で技術習得を図る。藩はその中の二人、プロシャ人(ドイツ)革細工師ワルデーとフラットミドルを雇うと靴製造及びなめし革製造を開業した。藩内の牛馬、その他の皮類を買い入れて精製、また修得希望者を多く採用して業務を広めた。
*兵員常用品はもちろん一般販売もした。紀州靴は評判となり *大阪鎮台の需要をも一手に担うほどであった。維新後の士族授産事業中もっとも結果がよく、靴製造業が盛んになる基にもなったのである。
*兵員: 紀州藩は国より早く1869明治2年徴兵制度を実施、農工商子弟20歳の者はことごとく兵役に就かせることにした。
*大阪鎮台: 廃藩置県と前後して鎮台(軍団)を設置。1873明治6年、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台を設置し徴兵令を発表した。のち師団。
鳴革の靴〔1887明治20年4月〕
―――明治の初年、靴は歩くにつれて音を発するを善となし、わざわざ一種の革を底にはめて音を出さんと勉めたるもの也・・・・・・「鳴革入りの靴はいて」という俗謡は、明治中期青年立志の一標的なりし。いかなる間違いより鳴靴をよしとする流行の起こりしものやら。
女教員・女学生の靴はいただけない〔1883明治16年・朝日新聞〕
山形の女学生は靴・袴姿〔1881明治14年・東京日日新聞〕
―――浜尾文部大臣が東北を巡回のおりしも・・・・・・女生徒らの風体ありて半男半女の姿あり、靴を履き、袴をつけ、意気揚々として生かじりの同権論などなす者あり。それ故か心ある者は女子を学校へ出すをきらい、女生徒の就学少なき・・・・・・女の靴、袴はほとんど跡をたちたりしが、山形では一人の女教師服せざるあり。何か説をなしてその意を貫徹せんと
参考: 『明治事物起源』石井研堂 『明治日本発掘』河出書房新社 『近現代史用語辞典』安岡昭男編
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日蘭関係から思ったこと
オランダについて、長崎の出島、オランダ風説書など鎖国日本においても交際があった国として親しみを感じていた。オランダ人も同じかと思っていたが、オランダ人は違うと聞かされた事があり不思議だった。その訳は戦争。
―――大半のオランダ人は江戸時代の交流を知らず、日本に直面したのは第二次世界大戦時。オランダ植民地だったインドネシアを占領した日本軍はオランダの兵士と民間人を強制収容所に入れ、食糧不足などで約17%(約2万2千人)が死亡した(毎日新聞「金言」2013.5.3)
そういえば、オーストラリアに住んだことがある知人にも、日本人を嫌いな人がけっこういると言われたことがある。これも戦争が原因。
戦後68年、孫のいる年代ですら戦争は親の話の中でしか知らない。その親たち明治・大正世代はもとより戦争中に少年少女だった先輩方も減りつつある。戦争をまったく知らない人間ばかりになったら、この先どうなるのだろう。今日は憲法記念日、まずは平和憲法大事にしよう。
2013.5.3
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