江戸から東京へ、義勇消防組の移り変わり
火事と喧嘩は江戸の華。いったん火災が発生すると大規模になることが多く、江戸城や武家屋敷を守るため大名火消、定火消が組織された。いっぽう一般の町屋は自主防災、かけつけ消火だった。
将軍吉宗は南町奉行大岡越前守に命じて自治消防を組織させ、「いろは48組」町火消が誕生した。
町火消を構成する鳶たちは身を棄てて義につく任侠、義勇の美風があり江戸町人に高い人気があり、江戸の「粋」の一面を代表した。しかし時移り
―――花のお江戸に異彩を放ち、勇敢と侠気とをもって誇った消防組も今時著しく衰退の状を示し、科学的進歩の為ではあるが1917大正6年器械消防の整理期に入りて以来いっそう消防組の意気は消沈した。今は唯余韻を残してわずかに昔の面影を偲ぶに止まるが、最近噂に上れる消防旗が実現して纏を廃さるる暁に至らば殆ど消滅運命に陥るかも知れぬ
明治新政府は富国強兵の近代国家を目指し、まず軍政、警察制度を改革した。しかし消防は町奉行の付属から東京府庁消防局になったものの目立った改革はなされなかった。
―――特設消防署が五大都市(大阪・京都・横浜・神戸・名古屋)に施行された今日でさえ警察官からの消防転任を左遷の如く心得、消防を警察の付属物視してとかく忌避する傾向がある
―――明治の大岡越州と云はれて裁断流るるが如き玉乃世履(東京府権大参事・のち大審院長)氏も消防については越州式の聡明を欠いて全く零であった。
―――(大正期)警視庁官制5部長の席次中、消防部長を最低位に置き、俸給も他の部長に比して差があり・・・・・・義勇消防の凋落を痛嘆せざるを得ない。
―――明治10年代の出初め式の錦絵では、消防夫の姿が和服と洋服と混交。
以上、『新舊時代』<義勇消防組の変遷盛衰・荒木三雄>より
法政と早稲田の図書館を活用しているが、古い雑誌を手に取ることができありがたい。ただ古い雑誌類は合冊されていても、殆ど索引がなく地道に頁を繰るしかない。もっとも時間はかかっても探索記事意外の興味深い文に行き当たると愉しい。「義勇消防組」もそれで、消防の歴史、また玉乃世履や沼間守一など人名にもひかれた。
読んで、世の中大転換するとき政治世界に目が向きがちだが、消防など実務畑は変化を受け入れ行動するしかなく大変だと思う。
<消防 略年表>
戊辰戦争から明治維新にかけ幕府が衰えたとき、町火消が江戸の治安維持活動の一翼を担った。
1870明治3年10月 武家諸藩の火消を廃し、町火消48組、本所深川16組を東京府(壬生基修知事)へ属し、町火消改め消防組となる。局長柳田友郷(種子島出身のち北海道開拓使赴任)
明治7年1月 消防局は、新設の東京警視庁へ移管、安寧課・消防掛(澤井近知掛長)となる。次いで消防課(永田盛庸課長)と改められた。
明治13年に消防本部が設けられるまで方針が定まらず、消防事務の主管は様々に変遷し幹部も警視からの兼任で専任ではなかった。
明治8年1月4日 中断されていた消防出初め式が「人心を収攬し、その職を挙げしむ」として復活。地方へも普及、今日まで続いている。
明治14年1月 官制をあらため本署とする。川端種長消防司令長は、沼間守一(元幕臣・政治家言論人)東京府会議長の諒解を得、イギリスから4組の蒸気喞筒(そくとう・ポンプ)を輸入したが、この時はポンプの扱いに不慣れで道も狭く使えなかった。
明治17年本署に蒸気ポンプ(動力)、各分署にドイツ製腕用ポンプ(人力により操作し放水)を配備。
明治22年 警視庁官制が改正されて機関士(消防官)がおかれ、放水を指揮した。
明治32年 近代水道の開通により、蒸気ポンプは水利に困らなくなった。
明治末期から大正にかけてガソリンポンプの国産化に成功、そして消防自動車が登場、威力を発揮した。当時、消防組の運転手は花形であり、羨望の的であった。
参考: 『新舊時代』(明治文化研究会・大正14~15年)/ 『消防団120年史』-日本消防の今日を築き明日を拓くその歩み- 日本消防教会(近代消防社・平成25.3.7)
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