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2013年5月18日 (土)

織田(丹羽)純一郎 文学者・新聞記者

 世の中広い!この地味ブログを読んでくださる方が思った以上で驚いている。感謝しつつ張り切りすぎず地道に書いていきたい。幕末明治を知るのは楽しい。
 時勢もあろうが明治人は個性豊かで行動範囲も広く興味がつきない。新聞草創期の記者らもその例にもれず、中でも硬軟両端の織田純一郎・朝日新聞初代主筆は小説にもなりそうだが、あまり知られてない。それは三条実美(幕末・明治の政治家、公爵)に憎まれたから?それとも素行?

 織田純一郎 1851嘉永4~1919大正8年 本姓若松。京都府生れ。
 父は京都所司代与力大塚猪蔵、幼名は幸之助。一条家の諸太夫若松備前守に養われ、のち三条家の用人丹羽氏の養子になり名を純一郎に。さらに曾祖母の姓・織田氏を名乗る。
 織田は昭憲皇太后(明治天皇皇后)がまだ一条家の姫君のころ、時どき学問のお相手をしたと伝えられる。1869明治2年昌平黌に遊学、のち高知の藩校致道館に入学。

 1870明治3年末、西園寺公望(明治・大正・昭和期の政治家、公爵)、尾崎三良(官僚)らとイギリス留学、エジンバラ大学で政治経済を学んだ。1874明治7年卒業し、いったん帰国、今度は三条実美の子・公恭(公美とも)のお付きとして再びイギリスへ渡った。

―――新日本は人材を必要とし海外留学を推進していたから洋行の若様のお供をし西洋文化を吸収、活躍した者も少なくない。明治のジャーナリスト池辺三山はその一人で、旧藩主細川護成に従ってフランスに留学、その余暇に書き送った「日本新聞の巴里通信」パリからの海外事情は好評を博した。
 他方で大名・公卿・華族の子弟中には
「一人はロンドンの業平となり一人はパリの助六となりつつ、ひっきょう一道も貫かず、国に帰りて役立つ貴公子は甚だ少なし」も(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』)。
 三条公の若様はお付きの織田が役目を果たさず遊里に出入り、ロンドンで羽を伸ばしすぎたらしい。父実美は補導よろしきを得ない織田を憎み、終生仕官を差し止めたとか。

 パトロンから見放された織田だが、帰国後、翻訳小説『花柳春話』(イギリス・リットン原著の抄訳)や『龍動ロンドン繁昌記』など著し、当時広く読まれた。

 しかしその暮らしぶりは『明治事物起源』石井研堂が友人から聞いた話によると、
―――俗客を集めて花札をしたり書画を売買・・・・・・狭斜(色町)にて戯れの文を読み物にし・・・・常に黒縮緬の羽織を着流しぞろっとしたる身なり、黒縮緬の先生のあだ名あり・・・・日夜留守がちなりし為に妻女は他の男に奔る。
 のち「大阪朝日」に入社、その頃に17歳の雛妓を娶り後年まで琴瑟相和す。しかし、研堂は一度訪ねたきりで会いに行くのを止めている。

 朝日新聞は娯楽と雑報が主の小新聞(こしんぶん)から政治経済が主の大新聞(おおしんぶん)へと変貌1885明治18年、初代主筆に織田を迎えたのだ。織田の仕事ぶりは『朝日新聞社七十年小史』によると、

―――諸外国の法制に精通、漢学の素養もあり、識学共に卓越した名記者で特に大阪府政に対する忌憚なき論評は、府の当事者や一般府民を覚醒する警鐘となっていた。また欧化主義全盛の時代に織田は西洋文明の長短、利害を截然と区別し批判して、欧米の皮相文明にかぶれた短見者流を戒め、条約改正問題も国際法と各国の法理に照らして条約締結の根本原則を明らかにし、改定すべき要点を懇切明快に解説して余すところがなかった。

 1888明治21年、織田は欧米新聞事業の視察を命じられ、アメリカに赴任する陸奥宗光公使と同船し渡米。帰国後、「大阪公論」主筆、翌年廃刊になり朝日新聞通信員として東京に出張していたが退職して陸奥の「寸鉄新聞」主筆、1892明治25年廃刊。
 その後、調査事業にうちこみ1900明治33年「社会新報」発刊、貧民問題に力を入れたが思うに任せず明治末期には根岸の侘住居で肺を病み、1914大正3年京都にひきあげた。69歳でそこの高野玉岡町で没(『現代日本文学大事典』)。 

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