« 靴のはじめ、桜組&紀州の靴製造 | トップページ | 織田(丹羽)純一郎 文学者・新聞記者 »

2013年5月11日 (土)

旧水沢緯度観測所(岩手)、木村栄(石川)、宮澤賢治(岩手)

 卓球をしているが百回注意されてもできない事が、痛い思いしたらできた。試合中、ひどい捻挫で一歩も動けなくなり病院直行。捻挫は足幅が狭いせいもと言われ、やっと足幅がとれるようになった。スポーツは頭と身体の両方だから難しい。じゃあ、脳みそ使うだけなら簡単?どっこいそうはいかない。とくに理数系はさっぱり解らない。親切丁寧な説明も素通りして残らない。どうでもいい話をしたのは<国立天文台水沢VER観測所>が気になったが「緯度変化」とか理解できない。でも、この観測所のこと書いてみたい。という訳で苦手、生かじりのまま書く言い訳です。

 1898明治31年、当時、地軸の位置に変動があることが発見され世界の学会で大問題となっていた。そこで、その正確な測定をするため万国測地学協会は緯度観測所を6カ所に開くことを決議、田中館愛橘(拙ブログ2012.11.3)はその一つを水沢に設置することに尽力する。
翌年、臨時緯度観測所が開所し木村栄が初代所長に就任した。木村は国際緯度観測を開始、以後40年以上にわたり緯度変化の観測・研究に没頭した。
 最初のころ、他の観測値に比べて水沢での差が大きく、観測値に不規則な誤差が生じた。これは日本の観測技術が未熟なものと疑われた。木村栄所長と職員らは天頂儀を解体して点検したが、機械に誤差の原因を見いだせなかった。
 地球の自転軸の移動にもとづく緯度の変化は観測地の経度によってちがうものであるが、緯度の変化のうちには経度に関係のない部分も含まれる。そこで木村は、自然現象の中に誤差の原因があると考えた。
 1902明治35年、木村は緯度変化を示す式に「Z項(木村項)という季節的変化を示す項を加えねばならない」ことを発見、日本の観測技術の水準の高さを世界に示した。

 木村栄(きむらひさし)
 1870明治3年~1943昭和18年。明治・大正・昭和の天文学者。
 東大卒業。大学院に進んだころから地軸変動を調べるため東京天文台で観測調査をはじめ、岩手県水沢に創立された緯度観測所の所長となり1941昭和16年までその職にあった。Z項/木村項の発見により第1回帝国学士院恩賜賞を受賞。大正期に万国緯度観測中央局が設置されるとその所長になる。1937昭和12年第1回文化勲章を受章。
 その後、旧臨時緯度観測所は木村栄記念館として測地学資料の展示など行われている。

 緯度変化の観測は、地図作成、天体の精密位置測定などに必要であり、地球の内部構造、近くの移動の研究などに重要である。日本及びアジアにおける国際測地学研究の拠点として、測地学に関連する研究及び測定を行ってきた観測所は組織変更により国立天文台VERA観測所となり、現在も国際緯度観測事業を行っている。
 また、観測に用いられた機材開発技術を応用して、月測地学探査に必要な機器開発を実施し、現在月探査計画での観測データ解析も行われている。

 ところで、水沢緯度観測所には花巻農学校(岩手県立花巻農業高等学校)の教師をしていた宮沢賢治がたびたび訪れた。この観測所で『風野又三郎』や『銀河鉄道の夜』の着想を得たともいわれる。それにもまして賢治が観測所を訪れたのには切実な理由があった。
 岩手県下に寒害・水害・風害・旱魃・病害などの予想があるごとに盛岡測候所や水沢天文台を訪れ、対策を考えて農村をめぐったのである。

  参考: 『岩手県の歴史散歩』山川出版社 『コンサイス学習人名事典』三省堂 『コンサイス日本人名事典』三省堂 『世界大百科事典』平凡社 『現代日本文学大事典』  <ja.wikipedia.org/wiki/水沢VLBI観測所>

|

« 靴のはじめ、桜組&紀州の靴製造 | トップページ | 織田(丹羽)純一郎 文学者・新聞記者 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 旧水沢緯度観測所(岩手)、木村栄(石川)、宮澤賢治(岩手):

« 靴のはじめ、桜組&紀州の靴製造 | トップページ | 織田(丹羽)純一郎 文学者・新聞記者 »