缶詰のはじまりは?
「缶詰の始まり」について、“つけまる氏”(服部撫松コメント)よりご案内があり当たってみました。纏めにくいので羅列しましたが、始まりはいつが適当でしょう。
[罐詰の始]石井研堂 (『明治事物起源』1908明治41年橘南堂)
――― 缶詰の始は1870明治3年中、工部大学雇教師米国人某が、四谷区津の守に住ひて、四季の果物類を缶詰と為し、自用に供したるを始とす。当時この外人に雇はれ、缶詰製造の手伝を為したるは、千葉県行徳の山田箕之助といふ者にて、同人先代喜兵衛(維新の際五稜郭にて戦死す)は、嘗て将軍家の漬物方を勤めしことあり、其の家記に拠れば、
寛永年間、北条阿波の守天草征討(島原の乱)の際、軍中に副食物の乏しきより、握り飯には一切黄粉塩を用ひ、後品切れにて胡麻塩に改めたるも。是又不足を告げて、拠んどころなく大根を細かに切りて味噌溜りにつけて溜漬と称へ、軍用に供したり、然るに文化年間、露人北海道に乱入したる頃、近藤重蔵氏 石狩国紋別に於て、右の溜漬を醤油漬に改めたるより、これを紋別漬と称ふ云々とあり。
斯くて箕之助は、1874明治7年前記米人の缶詰法に拠りて、この紋別漬を改良し、他の野菜類を用ひたるこそ、邦人の手にて缶詰を作りたる起源なれ。同年三井物産会社より、下谷池の端某店に托し、紋別漬200個を布哇(ハワイ)及び米国に輸送したるを以て、缶詰輸出の始とするよし。
山田箕之助: 福神漬発明者「野田清右衛門表彰碑」建立に名を連ねる。浄光寺(雪見寺)に建立の者は風戸弥太郎(日本和洋酒缶詰新聞社社長)、村田与兵衛(京橋にあった缶詰漬物商)、山田箕之助ら16名。
近藤重蔵: ご存じ蝦夷地探検家。旗本。
黄粉塩: 筆者には不明だが、箕之助の出身地行徳は江戸の頃栄えて塩田があり(行徳塩)幕府の保護も厚かったという。明治にも農商務省の製塩場があった(参考:『東京郊外楽しい一日二日の旅』1925年/『東京から:最近実査』1921年)。
『日本工業史』大観日本文化史推薦書(1942南種康博・地人館)より
1871明治4年 松田雅典、長崎にて外国語学校広運館教師フランス人・ヂュリーから鰯油漬缶詰の製法伝授を受け試製した。
1875明治8年 内務省勧業寮内藤新宿出張所に於て、果実や蔬菜の缶詰を試製。同年、米国加洲から帰朝した柳澤佐吉は桃の砂糖煮缶詰を試製した。
1876明治9年 米国帰りの大藤松五郎はトマト缶詰を試製したが、製法幼稚なために大半が腐敗。
それより先、関澤昭清はコロンビヤ州の鮭缶工場で缶詰技術を受けて帰朝、大久保内務卿に缶詰製造の必要を建言して容れられ政府は北海道開拓使に命じ、石狩川河口に缶詰試験場を設け、米国より教師としてU・S・トリートとその弟子を招いた。
1877明治10年 フィラデルフィア万博の審査官として渡米した池田謙三、手動製缶器械一式を購入して帰朝し、新宿試験所農具製作所(内務省勧業寮内藤新宿出張所)で之をまねて製作し民間の求めに応じた。缶詰製造を続け西南戦争に於ては陸軍に360貫の魚肉缶詰を補給した。わが国軍用缶詰の始である。
『中川嘉兵衛伝』(香取国臣編・関東出版社・昭和57年)より
牛肉缶詰の創始者:
1872-1873明治5-6年:中川嘉兵衛米国人ウィートより缶詰の製法を伝習される。1880明治13年より嘉兵衛の子・中川幸七、外国より缶詰機械を購入、東京銀座に店舗を構えて、牛肉缶詰を発売し名声を博す(『日本食肉小売業発達史』昭和46.3.31発行)。
缶詰の日/10月10日:
1877明治10年、明治政府は北海道開拓使による官営の缶詰工場を石狩に設置し、石狩川をさかのぼってくるサケを原料に我が国で初めて缶詰の商業生産を開始。この日が明治10年10月10日であったという記録により、缶詰業界では「缶詰の日」に制定(日本缶詰協会ホームページより)。
余談
1879明治12年日本は不平等条約の改正を強く望んでいたから来日する外国人の接待には気を遣った。アイルランド選出の議員で香港知事ヘネシーが北海道巡回中、折しも缶詰のできはじめであったから、開拓使の役人は缶詰で饗応した。するとヘネシーがしきりに誉めるので毎日、鳥獣魚肉の缶詰が供され、ヘネシーが辟易したというエピソードが林董『後は昔の記』にある。この「ヘ氏缶詰責めに逢う」を林は次のように結ぶ。
―――相互の事情に通ぜざる他国人を遇すること、之に類すること多し。
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