服部撫松、宮城県中学校作文教師になる
明治はじめの新日本は西洋文明の移入に忙しかった。この「文明」は西欧の武力、智力、技術が優先だったから「文学」は含まれていなかった。江戸時代からの戯作、風刺の雑文が社会の片隅にあったが夢中で読むような小説はまだなかった。
当時、知識層に人気があったのは服部撫松の『東京繁昌記』(1874明治7年)、成島柳北の『柳橋新誌』(同)などでともに漢文体で時勢を風刺、開化の世相を探り人気があった。柳北は「朝野新聞」でも知られているが、撫松の名はあまり聞かない。自分も知らないのであたってみた。
服部撫松(はっとりぶしょう 1842天保13~1908明治41)、家は二本松藩の代々の儒家。本名は誠一。戯文家、ジャーナリスト。
『東京繁昌記』で好評を博した後、週刊雑誌『東京新誌』(明治9~)、『江湖新報』(明治13~)・『内外政党事情』(明治15~)など政論誌を興し、改進党系のジャーナリストとして健筆を振るっていたが、やがて中学校の教師として東北に赴く。
1896明治29年、宮城県尋常中学校(のち第一中学校)へ作文教師として赴任。
ちなみに『コンサイス日本人名事典』(三省堂)に「小学校の作文の教師」とあるが中学の間違いではないか。『現代日本文学大事典』(明治書院)には仙台第一中学校の漢文教師として赴任とある。
吉野作造は中学5年生で服部先生の指導を受ける。思い出「服部誠一翁の追憶」(『新旧時代』)を残している。今の作文は好きな事を思いのまま綴るイメージだが、当時は与えられた課題を漢文くずし、難しい言葉を並べて書くものだったらしい。服部は吉野の卒業後、作文と漢文も教える。
服部先生が来るまでの吉野ら生徒は
―――国学者・松本胤恭先生が新井白石の『藩翰譜』を読ませ、作文の課題は史論風のを与えられた。国文主任・今井彦三郎先生は枕草子、徒然草などを奨励し、軽妙な短編を好んで作らせ、作文の風は和文体の傾向があった。所が之が服部先生の気に入らない。で、校長に報告をする。
―――私(吉野))は代表で湯目補隆校長に呼ばれた。お前方の作文をみると成るほどなっていない。今度来た服部先生というのは日本でも有名な文章の大家で、一体こんな所へ来て貰える方ではないのだ。こういう偉い先生につくのがお前の非常な幸福なのだから、これから身を入れて勉強しろ、こんこん説諭された。
―――服部先生は漢文くずしでなければ文章でないといふのであった。こそだの、けれどだのと書くと直ぐ朱線で消される。が、教場における先生の態度に面白味を覚えて心秘かに好愛し、先生にも可愛がられた。
―――私の郷里のさる人の碑文を有名な服部先生にみてもらいたいというので、先生に見せると無遠慮な朱筆を加えたので儒者が怒った。それから面倒が起こったが、先生の洒洒落落(しゃしゃらくらく)さっぱりしてわだかまりがない態度は大いに私をひきつけた。
―――先生の国訛りはひどい方でなかったが「どら程あるかと云えば、こら程ある」先生の「どらこら」と之に伴う手真似は有名で、生徒がどっと笑う・・・・・・白墨で真っ白になった手で衣服をいじり、顔も斑白にしたりを生徒が笑っても、平気であった。
吉野は撫松が宮城県に来た訳を「先生の仙台に流れてこられたのは、多分落魄の結果であったろう」と察する。しかし「私共は曾て一言の不平を先生の口から聞いたことがない」と異彩の先生をなお敬愛する。
吉野はのちに袁世凱の招き(拙ブログ2011.4.19 大正デモクラシーに理論を与えた人)で清国に赴く。
1908明治41年7月一時帰国、その間に突然、服部先生が訪ねてきた。
「老後の思い出に支那に行きたいから周旋しろ」と言われた。そのおり吉野は何を話したか忘れたが、服部先生が帰った後、座布団の周囲が煙草の灰でいっぱいだったのは覚えている。その翌月の8月15日、休暇で帰郷中の服部撫松は急病で没した。
| 固定リンク
コメント
服部撫松が明治9年頃今の銀座八丁目に公益問答新聞という新聞を発行していました。今の感覚だと雑誌に近いようなものでした。ここに福島事件被告人東京士族花香恭次郎が一時勤めていました。どの様なコネがあったか知りませんが二本松県公用人だった服部と大垣藩戸田家の関係があった気がします。花香はぺりー来航時浦賀で応接した戸田伊豆守氏栄の5男です。二本松藩には幕末大垣戸田家から嫁に来ていました。
服部がなくなった地は下谷根岸です。吉野作造と明治文化研究会で活躍した郡山の石井研堂も根岸で生活していました。
投稿: つけまる | 2013年6月15日 (土) 16時46分