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2013年6月 1日 (土)

原野に道路を切り開いたのは(北海道網走)

 2泊3日道東の旅。
  紋別空港からはじまって1日目は観光バス240㎞糠平温泉泊まり、2日目413㎞温根湯温泉泊まり、3日目315㎞。それに一部の人は、ひがしもこと芝桜公園花火見物で往復180㎞プラス、帰りの女満別空港まで計1148㎞のバス旅。それにしても夕食後の花火見物地が片道90㎞も先だったなんて、北海道って広~い!

 くしろ湿原ノロッコ号から広い湿原と蛇行する釧路川を眺め、オシンコシンの滝、摩周湖、知床半島は船で見物。合間にクマ、シカ、キツネ、馬、牛、ツルやアオサギも見た。またツルのために電線にカバーがかけてあったり、牛が道路を横切るとき交通事故に遭わないようにと牛のトンネルもあった。北海道は動物と共存している。
 最北端ゴールの桜前線のピンクと紫のエゾツツジに北国の春を実感、でもそここに雪が残り山は雪景色、夏はいつ来る?
Photo


 道は何処までもまっすぐ、直線16㎞の道もある。車窓の景色はひたすら畑か牧場、しまいに飽きがきそう。でも、くしろバスガイド高橋美保さんのユーモアを交えた説明が上手で飽きなかった。生まれ育ったふるさと、北海道への思いがにじみ出ていたのもありそう。たとえば畑山葵の話。

 

 山葵工場を造ることになったが山葵を栽培してくれる農家が見つからない。何とか網走監獄の官園で栽培して貰えることになった。9年かかって目途が立ち、やっと農家に栽培を依頼できた。やがて北海道産の畑山葵は全国に出荷するまでになり現在に至る。そんな話を聞いたせいか昼食の海鮮丼、山葵の鮮やかな緑が舌ばかりか目にもピリッ。

 

 旅は天気に恵まれ、網走の町に入ると明るい日差しの下で静かな佇まい。網走番外地のイメージは全くない。しかし今は博物館になっている赤煉瓦の網走監獄に囚人がいた時、囚人は道路開削に駆り出され苛酷な労働を強いられたという。明治の昔、原野に道を開いたはじめは囚人労働だったのを知り、図書館で調べてみた。その項を読むと想像以上に残酷で怖ろしい。

 

 明治初期、ロシアが南下し領土拡大の動きがあって、政府は北海道を開拓して府県からの移民を送ることにした。そのためには条件整備が急務であり、道路開削や炭鉱開発の労働力を確保しなければならなかった。 次の引用は、1879明治12年、内務大臣・伊藤博文は太政大臣・三条実美に意見書、1885明治18年内閣大書記官・金子堅太郎「北海道三県巡視復命書」が引用されている『北海道の歴史60話』(三省堂)から

 

―――長期の流刑囚徒を北海道の未開の地に送り耕作させれば、内地における負担と危険が除かれる。徒刑・流刑の囚徒の労働力を活用して北海道の開拓にあたらせ・・・・・・

―――1881明治14年樺戸、空知、釧路、網走、十勝に囚人を収監する集治監が設置され、最大時で7000名以上の囚人が収監されていた。開拓の礎にされた囚人の酷使・虐待は目をおおいたくなるほど酷い。多くの囚人が犠牲になったが「死んでくれれば一石二鳥だ」監獄費支出が減る。一日の賃銭も一般工夫なら40銭だが、囚人を使えば18銭ですむ

 集治監: 囚人を収監する施設。囚人は殺人強盗など重刑者であったが、自由民権運動の国事犯も含まれていた。
―――(釧路集治監看守の話) 囚人が死んでも連鎖をつけたまま葬られた者が少なくなかった。
―――(同看守) 網走-北見150㎞の道路を開業するために遠く網走に囚人の宿泊所を設けてここを本拠とし・・・・・・早く完成させるために800名の囚人を各区域毎に配置、激烈な競争をさせた。時には暗夜の12時、1時までも松明をつけてやった。

 

 鎖塚
 端野町緋牛内に三基の鎖塚がある。1891明治24年4月に着工し12月に竣工した上川・網走間の中央道路(北見道路)の工事には1400人の囚人が服役させられ、死者は211人に及んだ。死亡した囚人は鎖をつけたまま土をかぶせられ、土饅頭の塚ができたため鎖塚の名がうまれた(『北海道の歴史』山川出版社)。

 

 釧路集治監庁舎はいま標茶(しべちゃ)町郷土館として釧路湿原国立公園内の塘路(とうろ)湖畔に現存する。塘路駅に案内板があった。
 釧路に石川啄木の歌碑が幾つもあるのは、啄木が1908明治41年に釧路新聞社で勤務した縁である。
 啄木が歩いた釧路の道路、観光バスで通った網走の道路、どの辺りが明治期に切り開かれた道なのだろう。

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