イザベラ・バード旅行記とパークス卿夫妻の富士登山
鎖国日本が開国し明治維新なるも至るところ不平不満の種はあって1877明治10年西南戦争がおこり、西郷隆盛を推したてた士族反乱は徴兵軍隊に鎮圧された。まだその余波がありそうな翌年、早くも日本各地を旅したイギリス人女性がいる。ロンドンで出版された旅行記はわずか1ヶ月で三版を重ねる人気だった。その本を東海散士柴四朗も持っていた。会津若松市立図書館に今もある。ヨーロッパ旅行時に購入したのだろうか。
その原題は
“Unbeaten tracks in Japan,an account of travels in the interior, including visits to the aborigines of Yedo and the shrine of Nikko,”(日本の人跡未踏の道、江戸、日光、奥地旅行記)。
著者イザベラ・バード(1831~1904年)は、東京から北海道まで奥地を旅して記録した。その『日本奥地紀行』邦訳を読んで「昔の佳き日本人がそこにいるよう」な古い旅行記がなぜか新鮮だった。
バードは街道筋の大きな町を避け、なるべく人跡未踏の道を選んで歩いた。ドナルド・キーンが「まことに気丈なイギリス人の女性がいた」というように、筆者もほんとうに女性なのか名を確かめたほどだ。それほど大胆に不便な奥地を旅している。バードは見たまま、感じたままを率直に記している。
―――「私に食べられるものといったら、黒豆とゆでたきゅうりだけ。私が泊まったところが、街道外れの、日本の標準から言っても小さな村が多かったことを思えば、全般的に宿の施設は、蚤も悪臭もなく、驚くほど優秀だったといっていい。世界のどの国の、同じくらい辺鄙な場所と比べて、比較にならないくらいましだと言わざるを得ない」
―――「暑いけれど、まことにうるわしい夏の日だった。会津一円の、雪を頂く峰々は、陽光に輝いて、少しも涼しそうには見えなかった。だが南には栄える米沢の町があり、北には賑わう赤湯温泉がある米沢平野は、まさにエデンの楽園と呼ぶにふさわしかった」。バードはよいものは惜しみなく称賛した。
ところで、これまでの邦訳は関西と伊勢方面が省かれていたそうだ。このほど旅行記の完訳が出版されたと毎日新聞(2013.6.18手塚さや香)にあった。
『完訳 日本奥地紀行』全4巻、訳・金坂清則(平凡社)
金坂教授は原著に基づいてバードの旅の舞台へ足を運び、当時の地元紙や郷土資料を調べ、記述に食い違いがないか照合しながら訳したという。読めば、明治初めの日本庶民とその暮らしが眼前するに違いない。
イザベラ・バードはイギリス駐日公使ハリー・パークス(1828~1885)の仲介で手に入れた旅券を持って日本国内を旅した。パークスもまたバードの旅とは異なるが各地に出向いた。土佐など大名の領地を訪れたり、富士山にも登った。
<パークス夫妻の富士登山・1867慶応3年10月>(『ヤング・ジャパン 横浜と江戸』全3巻(J・R・ブラック)。
―――パークス卿は夫人と大勢の友人と一緒に富士登山をした。非常に遅い季節で、頂上は既に雪におおわれていた。しかし一行は、あらゆる困難を乗り越えて成功をおさめた。パークス夫人でさえ、最後まで頑張り、ついに日本の最高地の上に立った。彼女こそ、この神聖な高地に到着した最初の外国女性であった。・・・・・・寒気の厳しさは非常なもので、一行の中には、歩きながら手を振ると、手の皮がすりむけた者もあった。気温は華氏10度(摂氏零下12.2度)の低さだった。
世界遺産・富士山は美しく気高い。遠い昔から人の心を掴んではなさない。どちらかといえば強権イメージのパークスが夫人と富士登山、彼も人の子。しかしながら駐日公使パークス卿として天辺から眺めたヤング・ジャパンの形勢やいかに。やがて日英同盟を結ぶまでに力をつけると予測しただろうか。
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