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2013年6月15日 (土)

63歳の老武士荒蕪の地を拓く、新渡戸伝(岩手県)

 明治期のジャーナリスト鳥谷部春汀(銑太郎1865慶應1~1908明治41)の人物評は、行届いた調査、情理兼ね備えた論評が好評だった。現代でも、同時代人の人物観察は興味深く、参考になる。たとえば『春汀全集』評論「東北の人物」、一部引用すると、

東北の人物>1899明治32年9月
―――  世間東北を評するや、或は曰く、其地形人物頗る大陸的風気あり。或は曰く、東北は日本のロシアなり。東北人は頑固なり。東北人は遅鈍なりと。而して是れ多くは西南人の目に映ずる東北の性格なり。余請ふ東北の代表者と認むべき人物に就て少しく語らむ。
 由来西南には多智多識の人物輩出したれども、冷静の思索に長じ、堅実の創才に長じたる人物は寧ろ反って東北より出でたり。例えば国防の予言者たる林子平氏の如き、開国の先見者たる髙野長英氏の如きは、西南地方に生まれずして、共に東北の仙台に生まれ・・・・・

――― (以下、論評を割愛、氏名のみ) 佐藤信淵、平田篤胤、大槻盤渓、那珂梧楼、照井小作、工藤他山、新渡戸(邊)伝、広沢安任、伊達邦成、後藤新平、柴四朗、原敬、高平小五郎、杉村濬、赤羽四郎、林権助、珍田捨巳、佐藤愛麿、本多庸一、河野広中、鈴木舎定、菊池九郎、工藤行幹、富田鉄之助、髙野孟矩

――― 東北人を以て与し易しと思はば必ず失算あらむ。後藤伯(象二郎)は曾て東北を遊説せり、西郷(隆盛)侯も又曾て遊説せり、而して東北人は毫も感服せざりき。東北人は義理には明なれども利害の為に働かず。正義の前には叩頭すれども、人物を愚弄せず、権力に屈従せず、是れ東北人の性格なり。故に東北人は、学者として曲学阿世の徒を出さず、実業家としては投機師御用商人を出さず、政治家としては権謀術数の策士を出さず・・・・・・

 百年昔の東北人評、現代とどこが同じでどこ違う。それはともかく東日本大震災、津波、原発事故で被災した東北に必要なのは元気と力。蘇ったなら元気を分けてくれそうな人物を春汀の人物評から探してみた。五千円札肖像でおなじみ新渡戸稲造の祖父、江戸後期の篤農家・新渡戸伝(つたう)はどうだろう。

――― (新渡戸伝) 独力を以て、広漠無辺の三本木野を開拓せしむとして十年、しかも耳順(60歳)後の事業なるを思えば、その精神気力の大いに常人に超ゆるを見るべし。行未だ半ばならずして死したりと雖も、その建設せる地は、今や青森県の一名邑として彼の霊祠と與に残り、計画せる上水工事は今や渋沢栄一氏の手に依りて継承せられ、その目的漸く成らむとせり。以て彼が創業の規模頗る遠大なりしを知るに足る。

 新渡戸伝 (1793寛政5~1871明治4)。盛岡藩士。名は常澄、通称次郎八。

 十和田湖から東へ流れる奥入瀬川の左岸に近く三本木町がある。1935昭和10年、人口6600人かなり開けた町となっているが80年前、新渡戸伝が開墾に着手するまでは荒れ果てた原野であった。

 新渡戸伝の父惟民南部藩士で祿百石、花巻に住み軍学に秀でていた。花巻城の防備について藩主に反対、清廉潔白の人だが硬直のため屈せず追放され川内に移った。
 伝は貧乏な家計を支える為に、木樵となり行商人にもなった。その間、茫漠無人の三本木原野の開墾を思い、十和田山中の深林の利用法を考えていた。
 やがて援助を得ることができた伝は、十和田の深林を切り出そうとしたが
「湖水には龍神がいる」
という迷信を信じる村民は手を出さなかった。伝は多くの杣人(きこり)を雇い自らも木材を伐りだし、奥入瀬川の急流を利用して八戸港に流下、さらに江戸へ回漕した。9年間で大いに利益をあげたが、父の帰参が叶ったのでやむを得ず帰国する。当時、南部藩は財政が窮乏、理財にたけた伝を藩の勘定奉行にすることにした。

 数年の間に藩の財政も整い、ついに藩主から三本木野の開拓許可がでた。
 伝は63歳になっていたが情熱は衰えず、まず水利から着手。奥入瀬川の水面は原野より低くかったので上流から水を引くのは難事業であった。他にも問題山積、資金集め、労働者、安住できる町作り計画等など困難があった。労働者が足りず藩主に請い囚人もつかったという。

 こうして伝は開拓に心血を注いでいたが、再び藩に呼び戻され、息子の十次郎が事業を継いだ。十次郎は野辺地一帯の灌漑をも考えていたが果たさぬまま病死。このころ七戸藩の家老となっていた伝は息子の死後、藩の事務をとりながら開墾に従事した。
 1871明治4年、新渡戸伝は自分の開いた町でなくなった。79歳。三本木開拓の恩人は、町の中央の東の森に葬られた(太奉塚)。

 

 参考: 近代デジタルライブラリーより『春汀全集』『自治経営美談』『郷土資料・修身科補充教材』(岩手県教育会)『百傑スケッチ・金言対照』。 『コンサイス日本人名事典』三省堂

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