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2013年7月20日 (土)

今は昔か師範教育精神

 ずいぶん前の話。小学校を2度も転校したがすぐ友だちができ学校は楽しかった。足が速い、絵が巧い、木登り、何かしら誰もが認められ、イジメは殆ど見られなかった。ところが孫が入学したとき、イジメられないか、逆にイジメないか心配した。今はそういう時代になってしまった。勉強だけでも面倒なのに、人間関係に気を遣わないと楽しめないのでは、生徒は大変。教える先生も、親もかな。ところで、小中学校の先生のはじまりは?

 前に「大敵先生」の項で引用した『師範出身の異彩ある人物』著者、横山健堂は1871明治4年山口県生れ、1943昭和18年没。東大国史科卒。
 『読売新聞』に寄稿家として、のち『大阪毎日新聞』記者として人物評論に新境地を開いた。その時の人間観察と駒澤大國學院大教授も勤めたこともあるせいか、教育の力、役割について感ずるところがあったらしい。
 『文部大臣を中心として評論せる日本教育の変遷』(中興館書店1914大正3年)を著し、*森有礼から一木喜徳郎(第二次大隈内閣)まで、各文部大臣を論じている。
 中でも明治憲法発布の日に暗殺された子森(子爵・森文部大臣)の教育への熱意を詳しく記している。かなり肩入れしてるので健堂と同郷、長州出身だからと思ったが森有礼は薩摩だった。その学制改革、近代学校制度の熱意に同感してのようだ。
 * 森有礼
   1847弘化4~1889明治22年、薩摩藩士、明治前期の政治家。藩校に学び藩から命ぜられイギリスへ留学。帰国後、官についたが廃刀論で免官、のち清国公使、イギリス公使など歴任、結婚制度改良の為契約結婚を唱え実行した。1885明治18年第一次伊藤内閣・初代文部大臣

文部大臣を中心として評論せる日本教育の変遷』より一部抜粋

● 子森は、師範教育の価値及び其の必要を自覚し、*高等師範学校を以て、「教育の総本山」なりとし、他方に、出来るだけの節減を敢てしても、この学校を改良発達せしむる為に経費を減ずるは、尤も有力に、国民教育に資益する所以なりと信じたる也

● 子森が高等師範学校に重きを措き、之を監督し、干渉することも、他の学校より甚だしく、校長、教授の人選にも十分注意を払い、親(みず)から学校を視察したる事も少なからず、参観の時、教育法を批評し、或いは自ら試験問題を提出せしことすらあり

● 森文部大臣が九州巡回中、郡区長の責任に属する教育事業について説示したる演説中に、師範生徒は、省令を以て、その一部、郡区長をして推薦せしめ、一部は志願生を募集するの制に定めたれども、其の意は、皆、郡区長の推薦に出でしむるに在りと明言し、今迄の師範教育は、生徒その者の為に学校を開きたるが如き実況を現せり。法令の新精神は、之に反して、全く、郡区の教育の為に、生徒を養成するを以て主眼とするものと云へり

● 府県師範生徒を郡区長推薦する法の精神は、全く彼が国家教育主義に本づくものたること明白也。

高等師範学校:尋常師範学校長及び教員を養成、文部大臣の管理に属し、東京に1校。
  尋常師範学校:公立小学校長及び教員を養成し、府県に各1校。生徒の学資は、皆学校より支給し、順良、親愛、威重の三気質を以て教員たる者、必ず備ふべき者と(『日本教育史2』昭和48.7.27東洋文庫)

    余談
 前記の『日本教育史2』に海軍機関学校の記述があり、芥川龍之介の短編『蜜柑』を思い出した。
 1916大正5年、嘱託教官になり英語を教えていた龍之介は通勤の横須賀線で「窓から投げられるミカン」を目にしたらしい。
 大正時代は何かしら明るいイメージだが『蜜柑』を読むと、皹(ひび)だらけの頬をした少女が奉公にでなければならない現実がかいま見える。むろん文学だから登場人物の心理が手に取るよう、何度読み返しても切ない。

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