ああ上野駅
いつも行く御茶屋さんで、タウン誌『うえの』(上野のれん会発行)が手に入る。読むたび、懐かしさと発見がある。実家の墓が谷中にあり日暮里駅から歩いてお寺へ行くが、帰りは、東京芸術大学の前を過ぎて上野公園に入り、奏楽堂、さらに動物園を右に見ながら園を抜け上野広小路に出る。広小路が火事の多い江戸の火除け地と知ったのは後のこと。
ともあれ墓参は外食、見物、買い物がセットで楽しみな家族行事。用が済めば上野駅からJR、父親は省線と言ってたそれに乗って帰る。
今では上野駅もすっかり様変わり。薄暗い地下道にあった、映画の寅さんが何かと立ち寄った古びた飲食店はとうにない。構内の至るところに今風のしゃれた店が続々開店、昔の面影は消えたよう。でも、中央改札頭上の壁画を見上げるとウン十年昔が蘇る。やっぱり上野駅。東京の「北の玄関口」正面に、都電もレールもないけど外観は昔ながらの、ああ上野駅。
感傷的になっていたらテレビで大人気「あまちゃん」が上野駅ペデストリアンデッキで、岩手県に帰る「ストーブさん」を見送っていた。平成の今、上野駅待ち合わせはここ?ともあれ、上野駅あれこれ拾い出してみた。
『うえの』7月号巻頭は、天満裕一・上野駅内勤総括助役「上野駅の日々」――開業一三〇周年を迎えて――
そもそもは1883明治16年7月28日に日本鉄道会社の始発駅として開業し、列車は上野-熊谷間を2時間24分で二往復走りました。(後略)
日露戦争後の1906明治39年鉄道国有法により鉄道庁の管轄となる。
1923大正12年の関東大震災で駅舎焼失、1932昭和7年現在の駅舎を落成。
以来81年間、鉄道は兵士をどれだけ運んだろう。駅舎はどれだけの悲喜交々を見ただろう。終戦後、上野駅周辺や地下道には多くの罹災者が集散した。戦後も暫くの間、西郷さん銅像近く、階段の両脇に白い服の傷病兵の姿があり、子供心にももの悲しい光景にだった。
<上野駅今昔>
今では従業員が勤務中に酒を嗜むことを禁じてあるが、1894明治27年ころ(日清戦争前か)、正月になると客車だけ運転して貨物列車は三が日休み、会社から酒肴料がでた。
客車にトイレがない頃、老人が家から古瓶を風呂敷に包んでもってきてイザ、用を足そうとしたら虫が這い出して来て老人大いにたまげた話がある。
当時、上野駅は日本鉄道の本社があり、倉庫課、経理課、運輸課などすべての機関が纏まってい、官舎もずいぶんあった。
(『鉄路』清 計太郎1943輝文堂書房)
ちなみに『鉄路』出版は1943昭和18年の戦争さ中である。
序。・・・・・・鉄路は兵器である。鉄路は戦っている(鉄道博物館にて・清 計太郎)
本文はのどかな思い出話より―――鉄路と戦争/鉄路建設秘話/鉄路も躍進する/大東亜を結ぶ鉄路/鉄路の万華鏡―――が本題である。
鉄道生活40年の著者がいうように鉄道建設史、鉄道戦記であり、<シベリア鉄道の軍隊輸送/汽車に乗った西太后>等など、列車は国家権力を乗せて走ったのである。
参考:『鉄道ゲージが変えた現代史――列車は国家権力を乗せて走る』(井上勇一・中公新書1990年)
<上野駅前櫻亭>
「若し東京駅を帝都の表玄関とすれば、上野駅は裏玄関である」。これは「良い国良い人」の書き出し、裏も表もないだろうと思うが、その意識今もあるのかな。
当時、東京駅は東海道線一本に対し、上野駅は東北本線、海岸線、奥羽線、信越線、成田線など線路が蜘蛛の巣のようにあり、乗降客が多かったから休み所、待合所が必要だった。東京駅一帯はハイカラできびきび、というものの
―――東京駅付近の待合所のだらしなく、しかも暴利をむさぼるのに比し、櫻亭(上野の待合所)はその場所の便利なる上に、設備が能く整い、利益本位よりはお客本位を以て営業の方針とせるが如き、おそらく全国に於ける模範的待合所とすべきである。
(『良い国良い人――東京に於ける土佐人』澤翠峰/尾崎吸江・青山書院 大正6年)
<田中義一暗殺未遂事件(上野駅)>
原敬が東京駅で暗殺されたのは1921大正10.11.4、その7年後上野駅で暗殺未遂事件があった。1928昭和3.6.8田中首相は宇都宮の政友会支部大会出席のため上野駅に行き、貴賓室に入ろうとした刹那、白さやの短刀で切りつけられた。が、角刈り頭、下駄ばきの犯人(静岡県の25歳)は巡査に取り押さえられ上野署に引致された。
(『明治・大正・昭和歴史史料全集』暗殺編・有恒社1934)
<東京駅と上野駅>
東京駅と上野駅は昔から客種が違ったが、この違いがだんだん甚だしくなる。農村の窮乏を語るものは、上野駅である。
―――出征軍人の多い東北の窮状を察して、軍部は凱旋将兵への論功行賞を急ぐといふ。この報道に含まれる深刻性を思ふべし。
大都市に喧しいのは騒音防止の問題である・・・・・・都市の膨張とは、農村から、その若さと勢力を吸取ることである・・・・・・農家戸数550万、10年来固定した人口である。それは相対的に減少した人口である。総人口に対し1920大正9年の5割から1930昭和5年の4割5分に減少した人口である。
―――農村に働く青年から嫁を奪ひ、老人から一人息子を奪ひ、家から燈火を奪ふような人口の都市集中は、決して健全な状態とは言えないのではないか。
(『黒頭巾を脱ぐ』丸山幹治・言海書房1935)
ちなみに著者・丸山幹治は明治・大正・昭和期のジャーナリスト、政治評論家。1880明治13~1955昭和30。大阪毎日新聞社に入り短評欄「余録」を執筆し続けた。昭和期の政治学者、丸山真男は次男。
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