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2013年8月17日 (土)

末の松山(宮城県と岩手県と)

 卓球の友だちに、35度にビビって練習休むとメールしたら「了解。自分は行く」と返信あり。友は猛暑に負けず大汗、根性なしは家でごろごろ。きっと、その差は秋に歴然、でも足が出ない。
 今夏は日本全国猛暑、四万十市などは41度とか、風呂の湯と同温!呼吸するさえ辛そう。ところで、“末の松山”は何度?
 いきなり「末の松山ってどうよ」ですよね。実は、枕詞としか思わなかった末の松山が実在、しかも津波の被害に遭ったと「末の松山と津波」(毎日新聞2013.6..30)を読み気になったのです。次はその一部

―――百人一首 「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」(約束しましたよね。互いに涙で袖をぬらしながら、末の松山を浪が越えないようにと)
・・・・・・波が末の松山を越えないように、私が心移りすることなんてありませんよ、そう永遠の愛を誓っているのです。古典では大げさな表現がしばしば見られ、違和感を覚えながらも、誇張表現なのだろうと思っていました。・・・・・・一昨年の3月、その認識はがらりと変わりました。実は、末の松山は宮城県多賀城市周辺にあったとされています。
 末の松山があった場所は、東日本大震災で津波の被害を受けた地域だったのです。・・・・・・末の松山が東北にあったことは知っていましたし、三陸海岸大津波のことも少しは知っていました。でもその二つを結びつける発想はまったくありませんでした。あの日以来、末の松山の和歌は、私にとって忘れられないものに生まれ変わりました。
 (東 俊也、専門は「源氏物語」)

 末の松山、念のため『コンサイス日本地名辞典』(三省堂)でひいてみた。
 表記は“末ノ松山/すえのまつ-やま”、岩手県二戸郡一戸町北部の小丘。別称、浪打(ナミウチ)。一帯は折爪馬仙峡県立自然公園に属する。
 ここを手元の地図を見ると「あまちゃん」人気の岩手県久慈市から、秋田県のほうへ真横にほぼ一直線に行った内陸に位置する。宮城県多賀城市よりよほど海から遠く、津波が来るように思えない。しかし、貝・海中動物の化石が出土しているからここなのかな。そう思いつつ他も当たってみた。

 72年昔の『岩手の産業と名勝』(岩手県書籍雑誌商組合1941)に、“末の松山”の短い紹介文と古い写真があった。
   ――― 一戸町より北方福岡町にある浪打村地内、旧国道にあり馬淵川の右岸に位し、古人より末の松山に擬せられて「末の松山」と呼ばれているが実は浪打峠である。即ち坂道をなす左右の岩石は波濤状の層をなす砂岩中に海産貝類の化石を包含しているので古歌に附会せるものだろうといふ。

 前書より詳しいのが『地理趣味から知識へ』「末の松山の遺跡」(地理研究会編・岡田文精堂1926)である。
   ――― 果たして海であったでしょうか、今の松山といふところは海岸まで十里以上も隔たりがあり、高さも海抜数百メートルの処に在って、峠から俯瞰した一面は展望やや開けて、風光絶佳なるところではありますが、とてもそれが海であったとは地形上肯かれるものではありません。この疑問は久しきものではありましたが、今日の科学では容易く説明することができます・・・・・・この土地は数千万年の昔、海の底であったものが、隆起と云って(以下略)。

 ほかに目先の変わったところで『政海膝栗毛』 「末の松山」(九遍舎一八(今野弥治)・東京出版社1903)。
 十返舎一九をもじったペンネーム、時は日露戦争前、当時の政友会を皮肉っているようだが、誰誰、何事をあてつけているのか調べてみないと分からない。ただ、“末の松山”が用いらた例としてあげてみた。

――― 末の松山浪打峠は、陣笠波・直参波の押し寄する処なり。奇巌乱礁、断岸千尺、水落ち石出づるの勝観あるにあらずと雖も、瀟洒にして平和なる風色、宛として是れ墨画の山水、春宵秋日、文人詩客の逍遙に適す、政友会八景の一にして、滄浪閣を去る遠からず。

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