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2013年8月24日 (土)

幕末動乱、志士に御師、探偵までも東奔西走

 大河ドラマ「八重の桜」、舞台が会津から京都に移った。知り合いが「柴五郎が出てこないねえ」。自分もドラマは柴兄弟を避けているようだと感じる。
 八重の夫川崎尚之助が北海道へ米の買い付けに行き商人にだまされ、支払いができなくなり牢に入れられ、斗南藩は涙をのんで尚之助を見殺しという場面があった。実は尚之助の上司は柴太一郎、もちろん太一郎も牢に入れられた。
 己一身の責任として斗南藩に類を及ばさなかった為に長い裁判に苦しみ、五郎少年は辛酸をなめた。その事は『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』で読み、涙した人もあるだろう。
 柴五郎は北辺に追いやられた会津人、餓えと寒さに苦しんだ斗南藩を体現した少年ともいえるが登場しない。柴四朗と山川健次郎(のち物理学者・東大総長)は藩校・日新館で机を並べた仲である。西南戦争後、柴四朗はアメリカ留学をする。その壮行会に山川健次郎も参加、四朗と共に元気があまった連中の喧嘩騒ぎにまきこまれたりしている。
 ドラマと歴史上起こった事は別だが、『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』の筆者としては、柴兄弟の誰も登場しないのが不思議。そこで推測してみた。穿ち過ぎかも知れないが、柴四朗東海散士の経歴が問題なのだと。
 帝国日本と韓国の間には負の事件があった。それらの中に柴四朗が関わった事件もある。そうなると避けて通りたい、だから柴兄弟は登場しない。その意味で明治は遠くない。

 あれこれ思い巡らし柴兄弟が頭から離れなくなった折しも『坂本龍馬大事典』で、柴太一郎関連で気にかかっていた「山田大路」を見つけた。知る人が少ない人物を識るのは楽しい。来し方を辿って意外な人物、また有名人物にいきつく事もあり歴史の輪が広がる。

 
 話は幕末期に戻る。誰も彼も藩を思い日本の行く末を考え東奔西走していた時代1861文久元年、将軍徳川家茂と孝明天皇の妹和宮内親王の婚儀が決まった。
 その翌年、坂下門外で老中安藤信正が水戸浪士ら攘夷派に襲撃された。権威の衰えた幕府は、京で脱藩の武士や徒党を組んで横行する浪士も抑えられなくなっていた。治安維持のため京都守護職を設け、会津藩主松平容保を任命した。
 断り切れず覚悟を決めた会津藩は、まず準備のために家老田中玄清と公用方(外交役)野村直臣柴太一郎らを京に先発させた。太一郎ら公用人はそれぞれ情勢を視察しながら京へ旅立った。

 命を受けた太一郎は、浪士の宇野東桜と二人で江戸を出発した。途中、紹介者があって伊勢山田に寄り京の情勢に詳しい*御師の山田大路を訪ねた。そしてここからその家に潜伏していた安積五郎という浪士が同行して三人で京へ向った。その途中、今度は伊勢松阪の世古格太郎を訪問した。

 *御師:寺社に祈願するときに仲介をする祈祷師の称。宿坊を経営し、信仰の発展、普及にも寄与。山田大路は伊勢神宮神職。

 宇野・山田・安積・世古、4人ともよく判らないままだったが、『坂本龍馬大事典』で、山田大路の経歴が判ったので他の3人についても資料を探してみた。
 すると、幕府の密偵・宇野東桜、松平容保と同じ公武合体派の山田大路、という具合に会津藩士・柴太一郎が接触した理由がみえてきた。次は4人の略歴またはエピソード。

   宇野 東桜(八郎)  ?~1863文久3年
 

摂津高槻(大阪府)藩士。脱藩して江戸にいく。坂下門外の変、老中安藤信正襲撃事件で幕府側に通じていたとして、1863文久3年1月13日江戸新橋で尊攘過激派に殺された。その辺りの事情が『松陰とその門下』(高橋淡水1922現代堂)に出ている。

   <探偵宇野東桜

 伊藤俊輔(博文)桂小五郎に従って尊王攘夷運動に挺身し、高杉晋作久坂玄瑞井上聞多(馨)らと品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加した。晋作は、尊攘有志者の仮面をかぶって仲間に交り、大橋順蔵を捕へしめた宇野東桜といふ幕府の探偵を憎み
「宇野といふ奴は生かして置けぬ。アレはどれだけ我ら同士を苦しめるか知れぬ」
と殺害を決議した。白井小助が東桜を有備館に連れ込み、晋作が刀の目利きにこと寄せて東桜の腰刀を受けとるなり切っ先を東桜に向けて突き刺した。小助が留めを刺し、死骸は菰につつみ、伊藤その他が担いで、屋敷の門を出て暫く隔たった所に棄てて仕舞った・・・・・・。

    

 

   山田 大路 1815文化12年~1869明治2年 伊勢国神戸村生れ、父・飯高雄一郎。

 坂本龍馬とともに連名簿に名を連ねるが、尊王攘夷論者というより公武合体論者。伊勢の御炊太夫。従五位下。1850嘉永3年山田の前野町御師職山田大路三太夫の家督を嗣ぐ。
 妻・納子の実家は中山大納言家と姻戚にあたり、また薩摩・大隅・日向を壇所とし薩摩侯の信頼が厚かった。ために中山家に仕える田中河内介や清川八郎とも昵懇だったという。
 のち斎宮の再興を建議し、また遷都に異議を申し立て要路を批判したことから *神祇官から処罰され、幽閉中に没した(『坂本龍馬大事典』新人物往来社2001)。
 *神祇官:明治維新直後の政府機関。神祇・祭祀およびその行政をつかさどった。

 「三重県下幕末維新勤王事跡資料展覧会目録」「山田大路親彦事跡資料」より抜粋。
 著作「道の大綱」万延元年刊/ 山田大路親彦和歌短冊幅「よの中のしつかりならぬをなげきて」/ 神嘗祭復興東京遷都諫止の事など四ヵ条願書写ほか。

 

 

 
安積 五郎  1828文政11~1864元治 幕末期の志士。江戸出身。

 飯田忠蔵の子、名は武貞、五郎は通称。売卜者安積光角の弟子となり後を継いで占いを職業としていた。後に儒学を東条一堂に、剣術を千葉周作に学んだ。
 清川八郎と親交をむすび尊王攘夷をとなえ同士を糾合し1863文久3年 *天誅組大和挙兵に参加した。敗れて津藩兵に捕らえら、京都六角獄中で惨殺された(『コンサイス日本人名事典』三省堂)。

 *天誅組: 天忠組とも。脱藩士が結成した倒幕尊攘の最激派。

 

 

 

 

     世古 格太郎 1824文政7~1876明治9年 幕末・明治期の志士、神職。諱は延世。

 伊勢国松坂の豪商の子。斎藤拙堂に儒学を、本居内遠と足代弘訓に国学を学んだ。
 1854安政元年、三条実万(実美の父)と接触し禁裏に仕え、また尊皇の志士らと交流した。また、薩摩の大久保利通高崎猪太郎などと懇意であった。太一郎はのちに薩摩と会津が協力して長州を追い落とすとき(禁門の変)、高崎らとその方策を談合している。
 世古の周旋によって野村直臣(会津藩留守居役)と共に三条実美に面会することができた太一郎は、それより後、実美と藩主容保の間をたびたび使いしている。

 世古は水戸藩への降勅に際し密使として活動、安政の大獄に連座したが、維新後は徴士、権弁事、京都府判事など歴任した。
 また宮内権大丞となり古社寺や古文書、宝物の保存を訴え、大隈重信に申し出て古社寺保存会を作っている。墓所は青山霊園。
 著書は、「唱義聞見録」(『吉田松陰全集』岩波書店)/『銘肝録』 /『安政文久日記』ほか。

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