天田愚庵と清水次郎長、山岡鉄舟
グーテンベルクの次は清水次郎長、なんという脈絡のなさ、この自由気ままさが“けやき流”。それでも今回はなるべく福島・宮城・岩手方面をという思いに立ち返り、福島県生れの明治の歌人、天田愚庵を見つけた。その波乱の人生に関わった人間は多く有名人も多いが、放浪の青年を導いた山岡鉄舟と清水の次郎長を紹介したい。まずは年齢順に3人の概略。
清水次郎長
1820文政3~1893明治26。駿河国有渡郡清水港(静岡県)。本名山本長五郎。父は廻船問屋、母の弟米問屋山本家の養子になる。侠客兼博奕打の親分。黒駒勝蔵との抗争は有名。
戊辰、函館戦争後、幕府脱走の咸臨丸が清水港で戦い敗れ、旧幕兵の死骸が海に漂う。これを目にした次郎長は「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか。もしお咎めを蒙ったら此の次郎長は喜んで刑罰を受ける」と遺骸を葬って「壮士の墓」を建てた。軍神広瀬中佐も候補生時代から次郎長に親しみ交わった。
山岡鉄舟
1836天保7~1888明治21。江戸。旗本小野朝右衛門の子。山岡家を継ぐ。通称鉄太郎。
千葉周作の門に入り、のち道場を設立。幕府講武所剣術心得、浪士取締役となる。官軍が江戸に迫るや西郷隆盛と勝海舟の会談を周旋、江戸城明渡しへ道を開いた。
天田愚庵:
1854安政1~1904明治37。磐城国(福島県)生まれ、本名五郎のち剃髪し鉄眼。父は磐城平藩士。歌人。その歌は万葉調で力強い。著作『愚庵全集』1934
平藩は戊辰戦争で幕軍側についた。15歳の五郎(愚庵)も兄と籠城したが戦い敗れ落城。家に帰ると父母と妹は行方不明になっていた。以来、20年も行方を尋ねて流浪する。
1871明治4年、五郎は学友と上京、駿河台ニコライの神学校に入学するもなじめず、世話する人があって国士の間で重きをなしていた小池詳敬の食客となった。五郎は小池に従い東海道から九州中国の果てまでも旅したが、父母妹は見つからなかった。
またその頃、落合直亮(落合直文の父)に国学を学び、丸山左楽(明治の政治家)とも交流、山岡鉄舟には禅学をうけた。これらの人達から教えを受けられた事は五郎に幸いした。
1878明治11年は西南戦争の余波で不穏な空気が漂ってい、五郎も政府に反する土佐派から一働きしようと持ちかけられ東京を飛び出した。心配した鉄舟は五郎の友人に手紙を托し、静岡に呼び寄せた。鉄舟が五郎を叱っている折も折、清水次郎長がやって来た。そこで、鉄舟は次郎長に言った。
「親方よ我今汝に預くべき物こそあれ、此の眉毛太き痴者をば暫く手元に預かりくれよ、尻焼猿の事なれば、山に置くもよかるべし」といえば次郎長もさる者その意を察し、「畏まって候、屹度預かる上はお気遣いあるな、併し余りに狂い候はば、その時は胴切りに切り離し候ほどの事はあれかし」など戯れて、その座より五郎は次郎長に伴われて清水港の宅に至りけり。
鉄舟は次郎長の縄張りと義侠で五郎の父母妹を捜索できると考えたのだ。こうして東海道の侠客次郎長に託された天田五郎を子分らは「五郎さん」と呼び親しみ、五郎の立派な書に感心するも、まだ歌は詠まず、後に名を成すとは思わなかった。
1879明治12年、五郎は帰郷して兄と相談、諸新聞へ父母妹捜索の広告を出した。また、東京浅草の江崎礼二の内弟子となって写真術を習った。旅回りの写真屋となり伊豆から駿遠甲信、更に奥州までも巡り父母妹を捜したが、見つからなかった。
1882明治15年、五郎は清水港に帰って次郎長の養子「山本五郎」になり、東海道の宿場で多勢のならず者を相手に茶碗酒を飲む身となった。次郎長の風格は五郎をひきつけ、次郎長の人間性は五郎の肉付けとなった。
この年、五郎は次郎長の富士の裾野の開墾事業の監督をする。この開墾は次郎長が多くの子分共に産業の道を開いてやるために計画したものだったが、もともと放縦な暮らしになれた博徒達を指揮するのだから能率はあがらなかった。前後3年、苦心の経営はついに実らなかった。
1884明治17年、五郎は旧姓「天田」に復し、鉄眉の号で『東海遊侠伝』(次郎長の伝記)を著した。
また、五郎は自身の半生を記した「血写経」を陸羯南(ジャーナリスト・新聞「日本」創刊)に送った。それを饗庭篁村(小説家・劇評家)が書き改め、『日本』に連載した。
五郎の父母妹捜索は、遠く台湾、冬の北海道で肺病になり東京へ送り帰されたりもあった20年、しかしついに打ち切ることにして、大阪の新聞社に入った。
1885明治18年、内外新報社の幹事として大阪に行くことになった五郎は鉄舟の元へ暇乞いに行った。鉄舟は五郎に一通の書を与え、つぎのように諭した。
「御身大阪に行かば西京は程近し天竜寺の滴水禅師は世にかくれなき禅門の大徳にて、我がためにも悟道の師なり。汝事業の余暇には必ず参禅して心力を練り給へ、若し一旦豁然として大悟する事あらば、死したる父母にも座ながら対面すべし、汝が捜索の労つとめたりといへども其効なければ 今は早や外に向かって其跡をたづねんより内にかへつて其人を見るに若かざるべし」と。
大阪へ赴いた五郎はさっそく京都の禅師を訪ねて参禅、これが出家の機縁となる。
1887明治20年、五郎は得度をうけて剃髪、鉄眼と称し京都林休寺に入って禅師に仕えた。
1892明治25年、鉄眼は京都清水に庵を営み、師より賜った偈の一文字をとって愚庵と称した。以来、各地を旅し父母の菩提を弔い、正岡子規をはじめ当代の文人と交わり風月を友とした。
愚庵の残した漢詩・和歌・書・文はどれも独自の風があり、なかでも和歌は万葉調で自然を対象としたもの、父母を懐かしんだものによいものがある。ほか日露開戦論者だったので、時の政府の軟弱を怒る「童謡20首」がある。愚庵の歌について斎藤茂吉の評は
―――愚庵の歌は良寛の歌に比して、少し躁急であり粗笨(そほん)である。・・・・・・しかし強く推してゆくところは愚庵の歌に多く見当たる。
1904明治37年1月17日、天田愚庵は伏見桃山の庵で、妻もなく子もなき、変転きわまりない生涯を閉じた。
参考:『福島県立図書館叢書.第9輯』1939/ 『現代日本文学大事典』明治書院/ 『国語・学習指導の研究.巻4』岩波書店1939/ 『懐かしき人々』相馬御風1937/ 『侠客の戸籍調べ』醍醐恵端1920/ 『清見潟案内』若林錦水1921/ 『清水市郷土研究.第4輯』1940ほか。
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コメント
愚庵にコメントありがとうございます。
愚庵の愚から狂歌を連想されたのでしょうか。波乱に富んだ人生、関わった同時代人から愚庵に興味をもちました。そんなことで愚庵の狂歌は知りません。 短歌でしたら、ブログにあげた参考のほかに、斎藤茂吉『短歌私鈔』があるそうです。
投稿: けやき | 2013年11月16日 (土) 10時58分
愚庵という庵号の有無を調べたところ、ここに参りましたが、石=イスの咄はとりわけ面白かった。その地方にもかぐ山あれば躑躅は。。。とか色々と狂歌の愚案をすぐ思いついた。。。
用件のみ。愚庵の歌には、豆腐に羽がないことを有り難い良寛の歌同様、発想上狂歌にもなる面白い作品を語存知ならば、教えて頂きませんか?狂歌数万首まで拾っておるが、狂歌は狂歌集(あるいは夷曲、戯歌、古代誹諧、などのそれ)に限らない傑作求。 よろしくお願いします。
敬愚(robin d gill)
投稿: 敬愚 | 2013年11月16日 (土) 00時26分