« 明治・大正期の洋画家、萬鉄五郎(岩手県) | トップページ | 童謡・唱歌・わらべうた、軍歌 »

2013年9月28日 (土)

元気と智恵で渦中に乗りこむ、清水卯三郎(瑞穂屋)

 以前、山東一郎(直砥)の辞書『新撰山東玉篇 英語挿入』(1878刊)をとりあげたが、当時は印刷がそう簡単でない時代かと思い、当時の印刷出版に興味をもった。日本には古くから木版があり書物も多く、活字印刷は普及していなかったからである。
 調べてみると、山東は明治の初め横浜で、浅草天王町の商人・清水卯三郎からパリ直輸入の印刷機「足踏み式印刷機・フート」を購入している。しかし印刷機は慶應義塾に納まる。
 その経緯は、慶應義塾の経営が軌道に乗り活版印刷に興味を持った福澤諭吉が印刷機を買うべく瑞穂屋(卯三郎)を訪ね山東が購入した後と知り、すぐに山東のもとへ行って印刷機を手に入れたからである(『慶應義塾五十年史』)。

 1867慶応3年、徳川慶喜はフランスからパリ万国博覧会へ招待を受けると徳川昭武を派遣した。幕府も出品物を準備し、各藩や商人たちにまで出品を勧誘、これに応じたのが肥前藩、薩摩藩、江戸商人清水卯三郎であった。
 万国博覧会出品物は輸送船を雇い幕府役人が宰領したが、瑞穂屋から吉田二郎ほか3名、柳橋芸者3名も同船した。日本の出品物は好評を博し、ことに卯三郎の作った日本茶屋は人気でパリの新聞にのり、連日大入り盛況であった。
 昭武は博覧会が終わると留学生活に入ったものの幕府が倒れ、留学を中断して帰国する。卯三郎は欧米の学術工芸を視察し1868慶応4年5月、戊辰戦争さなかに帰国した。

 随行の一人、渋沢栄一は資本家の第一人者となるが、このヨーロッパ体験から得たものもあるだろう。その渋沢は埼玉県深谷市出身、卯三郎はそこから遠くない羽生市の生まれ。同じ埼玉県人、武士出身ではないが明治期に活躍は共通するが、清水卯三郎を知る人は少ない。卯三郎の活躍を知るにつけ、智恵も勇気もあり波瀾万丈の活躍をしたのに埋もれてしまっているのは惜しい。ともあれ、紹介してみる。

   清水卯三郎(瑞穂屋) 1829文政12~1910明治43年。

 武州埼玉郡羽生村名主の三男。生母が亡くなり養母の実家、叔父の根岸友山に養われる。友山は勤王運動家で国事に奔走、家には志士、浪士、学者などが出入りしていた。12歳で友山の師・吉川波山に漢学を学び、その後は仙台藩士小林に数学、江戸人の青木に薬学を学んだ。
 1849嘉永2年、卯三郎21歳は江戸に出て、叔父友山の縁で漢学者・寺門静軒、蘭学者・佐藤泰然のもとを訪れ学ぶ。

 1854安政元年、北からの黒船ロシアのプチャーチンが下田に来航、筒井政憲川路聖謨が応接係となる。卯三郎は友山に頼み、表向き筒井の足軽となり下田に向かった。
 幕府役人中に翻訳方の蘭方医・箕作阮甫がい、その縁で、のち阮甫の家に住み込み蘭学を学ぶ。下田ではロシア人に近づき会話もし、必死の勉強で百日ほどの滞在中に250余のロシア語を覚えた。折しも安政の大地震が起こり、下田にも大津波が押し寄せ、ロシア艦ディアナ号も大破。
 この年の暮れ、卯三郎はいったん羽生に帰り、また江戸へでる。

 1856安政3年、本草学と西洋薬学を応用した「日本大黄考」発刊。
 1856明治4年、海軍伝習生を志願して長崎へ行く。
 1858安政5年、安政の五カ国条約が結ばれ横浜開港、翌年から貿易開始となる。
 志を果たせず、やむなく長崎から戻った卯三郎は、遠縁の「いせとく」と組んで横浜に「たなべや」を開店、主に大豆を売買する。ここでもツテを得て、通事・立石徳十郎に英語を習い、またアメリカ総領事ハリスの書記官に日本語を教え、彼から英語を習った。
  この横浜の店に岸田吟香が訪れ、卯三郎はヘボンを引き合わせた。そして、吟香はヘボンの『和英語林集成』の編纂を助けることになったのである。
 
 1860万延元年、実用的な商人用の英会話書「ゑんぎりしことば」を書いた。
 1862文久2年、生麦事件。謝らない薩摩にイギリスは怒り談判するも決裂。
 1863文久3年、イギリス艦隊7隻が横浜を出航、鹿児島に突進。この時、卯三郎はイギリス人から日本文を読む者として同行を頼まれると「それは面白い行ってみよう」と承諾、横浜税関の免状をうけ旗艦ユーリアスに乗りこみ親しく戦争を見物した。
 この戦争で薩摩の寺島宗則(明治前期の外交官)と五代友厚(政商)の二人がイギリスの捕虜になった。寺島と卯三郎は面識があり意外な邂逅に驚き、卯三郎は二人の釈放に尽力した(『福翁自伝』)。二人の命を救ったのは、生来の積極性と向学心にもえる卯三郎らしい勇気ある行動であった。

 1867慶應3年、ナポレオン3世治下のフランス・パリ万国博覧会に参加。
 万博みやげは、活版印刷石版印刷の機械、陶器着色や鉱石鑑別の方法、西洋花火、ほかに歯科医学関係の書籍と歯科機材がある。
 1868明治元年、浅草に瑞穂屋商店を開業、西洋書籍・器具類の販売石版印刷を試す。
 「六合新聞」発刊。しかし、「御用金廃止の建白に賛意をのべたハリー・パークスの不敬事件」を弁護して忌避にふれ、7号で廃刊。
 1869明治2年、日本橋本町三丁目に移転し業務を拡大。

 1873明治6年、森有礼(初代文相)を中心に啓蒙団体、明六社設立。福澤諭吉のほか、ほとんどが明治維新政府の新知識というなか卯三郎は商人ながら有力メンバーであった。
 1874明治7年、『明六雑誌』に「平仮名ノ説」を発表。卯三郎は西洋の文化をいち早く輸入したが、頑強な国粋主義者でもあった。
 漢字廃止を叫ぶがローマ字でなく、かな専用を採用、独自の“やまとことば”を用いた。
 卯三郎のいう「舎密の階」『ものわりのはしご』は、原著「平易な農学入門のための実験化学概要」の翻訳書である。自伝「わがよ  (1899)」が 『しみづさぶろう畧伝』附録にあるが、分かち書きされてても全編ひらがなは辛い。
 1875明治8年、アメリカから歯科医療機械を輸入販売。また、窯業用薬品を発明、陶器七宝製造の改良に尽力。出版事業につくし、書籍業者第一回委員となる。
 1881明治14年、「西洋烟火之法」発刊。『保歯新論』発行。

 1883明治16年、かな文字推進の三団体が団結し「かなのかい」を結成、卯三郎は機関誌などを出版し応援した。『かなのくわい大戦争』発行。
 1887明治20年、『ことばのはやし』発行。
 1891明治24年、「歯科雑誌」を発行、また40種あまりの歯科に関する出版もした。
「歯科雑誌」(瑞穂屋発閲)は歯科医学に関する論文を、欧米歯科雑誌から抄訳して掲載、月刊で100号まで続いた。
 1894明治27年、日清戦争。 『日本大辞林』発行。
 1910明治43年1月20日没、82歳。“隠れたる明治文化の貢献者”清水卯三郎、浅草・乗満寺に葬らる。

   参考: 『しみづうさぶろう畧(略)伝』昭和45年・長井五郎著/ 『新旧時代』4・5・6号「みづほ屋卯三郎」井上和雄/ 『明治事物起源』石井研堂/ 『徳川昭武 万博殿様一代記』昭和59・須見裕著・中公新書

|

« 明治・大正期の洋画家、萬鉄五郎(岩手県) | トップページ | 童謡・唱歌・わらべうた、軍歌 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 元気と智恵で渦中に乗りこむ、清水卯三郎(瑞穂屋):

« 明治・大正期の洋画家、萬鉄五郎(岩手県) | トップページ | 童謡・唱歌・わらべうた、軍歌 »